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サムライブルーの原材料BACK NUMBER
背番号3を受け継いで…松本山雅の象徴・田中隼磨40歳が天国の松田直樹に捧げた現役最終戦「マツさんなら絶対、お前情けねえなって…」
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byJ.LEAGUE
posted2022/12/19 11:02
J3最終節の相模原戦、後半42分からピッチに立った松本山雅の田中隼磨。この試合で22年間のプロキャリアに終止符を打った
加入1年目の2014年シーズン、反町康治監督のもと「走る山雅」の象徴となった彼は5月に半月板を負傷したものの、その事実を隠したままシーズンを戦い抜いている。
「膝がぶっ壊れてもいいぐらいの覚悟がありましたから。俺たちはうまくないし、強くもない。昇格という目標に向けて中途半端な気持ちでは戦えない。だから自分もこれくらいのケガで負けるわけにはいかなかったんです」
松田直樹の背番号「3」を受け継いで
クラブ初のJ1昇格を決めることになる11月1日のアウェー、アビスパ福岡戦も痛くて蹴れない右足の代わりに左足のロングキックが先制点を呼び込み、勝利を引き寄せている。
慕っていた横浜F・マリノス時代の先輩、松田直樹が2011年8月に急性心筋梗塞で他界して空き番号になっていた背番号「3」を、松田の思いとともに受け継いだ。ユニフォームを脱いだ田中のアンダーシャツには背番号3とともに松田直樹の名前が記されていた。ピッチに突っ伏して、涙を流した。
右ひざ半月板は松田の古傷でもあり、当時の田中も「これまでケガらしいケガなんてしたことがなかったのに、3番を背負ったらこれですからね。でもマツさんから与えられた試練なんだと感じました」と語っている。まさかずっと付き合わされるとは考えていなかっただろうが。
慢性的な痛みはあっても、ピッチに立てないレベルでもない。16年に右眼裂孔原性網膜剥離を患って引退危機にさらされたことはあったが、ケガによる長期離脱は一度もなかった。
入念なケアや事前準備によって患部への負担を極力抑えてきたとはいっても、限界はある。ついに悲鳴を上げることになるのが2020年シーズンだった。反町が退任してメンバーの入れ替えも進んでいたなか、ベテランの自分が先頭に立っていかなければならないと奮い立たせていたときに試合中に負傷して、復帰まで3カ月を要した。
「自分自身、後悔なんてまったくない」
翌2021年5月には手術を実施する。右ひざの外側半月板損傷、軟骨損傷、右関節内遊離体、関節滑膜炎とダメージは広範囲に及んでいた。ここからラストゲームとなる相模原戦までピッチから遠ざかることになる。
「手術は2回、手術に近い処置を含めれば3回になりますかね。PRP療法も10回以上やってきたし、いいと聞いた治療法も日本中回って全部やってきました。いろんなお医者さんにも診ていただきました。やれることはすべてやってきたつもりです。
どの先生からも最初にひざを痛めた段階でしっかりと処置をしておけば、ここまでになる可能性は低かったとは言われます。でも自分自身、後悔なんてまったくないですよ。あの年(2014年)僕が途中で離脱してしまったら……と思うと。覚悟を持ってここに来たわけだから、それをしっかり示す意味でも(ケガで)抜けるなんて、まったく考えていませんでしたから」