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「甲子園に行ければ18歳で死んでもいい」東大合格と甲子園出場…“ダブル達成”したスゴい人はどんな天才? 100年間で24人だけの奇跡
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byKYODO
posted2022/11/19 11:00
甲子園球児が東大へ…2004年の東京六大学リーグ新人戦で登板した楠井一騰(松江北・2008年卒部)
「勉強においても、内容に興味を惹かれてのめり込んでいたわけではない。負けず嫌いだったので、テストの点数で誰にも負けたくないという気持ちの方が大きかったです。そのために、苦手なことをひとつずつ潰していく必要がありました。塾に行かせてもらうなど、そのような努力ができる環境を作ってくれた両親には感謝しています。友達はテレビゲームなんかもやっていましたが、私は興味を持つ暇すらなかったですね。体力強化の名目で自転車は買ってもらえませんでした。自転車の友達と一緒に移動するとき、私だけ走って追いかけていましたから(笑)。はたから見れば異質な家庭環境だったと思いますが、基本的にやりたいことはやらせてくれましたし、不自由を感じたことはありませんでしたね」
楠井本人としても、時が経つごとに東大というゴールが明確になっていく。楠井は島根の私立開星中学に所属しており、そのままエスカレーターに乗れば現在まで13度の甲子園出場を誇る開星高校へ内部進学もできた。島根県においては甲子園出場への最短距離のひとつであったが、楠井は県内トップの進学校、松江北に進む。
無論、楠井にとって最終目標は甲子園ではなく、東大だったからだ。
「開星高校で自分が活躍できる確率が低いこともありましたが、やはり私のゴールは東大野球部に入ることでした。なので、甲子園の優先度が最も高かったわけではなかったです。開星に進んでいたら甲子園を何度も経験できたのかもしれないと思いますが、高校の選択に今でも後悔はありません」
「甲子園に行ければ、18歳で死んでもいい」
一方、東大野球部への入部など毛頭考えていなかったのが、2005年のセンバツ大会に出場した中村信博(高松・2012年卒)だ。中村は東大卒業後、NHKに入局し、現在は地元四国の松山放送局でアナウンサーを務めるなど、一見すると華やかな経歴である。
しかし、「僕は甲子園にさえ行ければ、18歳で死んでもいいと思っていました」と話すように、中村は甲子園を人生の目標とし、東大はおろか大学進学のことさえ深く考えていなかった。前出の楠井とは180度異なる価値観だ。
そこまで甲子園に魅せられたきっかけを中村はこう語る。
「小学校1年生で野球を始め、すぐに父親が甲子園に連れていってくれました。外野スタンドに入った瞬間、盛り上がる歓声や独特の雰囲気を感じ、絶対に将来ここで野球をすると小学生ながらに誓ったんです」