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野村克也「落合がワシとダブってしょうがないんや」…ノムさんが45歳で“現役引退”を決断した夜「ざまあみろ、西武なんか負けてしまえ」 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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photograph bySankei Shimbun

posted2022/09/08 17:17

野村克也「落合がワシとダブってしょうがないんや」…ノムさんが45歳で“現役引退”を決断した夜「ざまあみろ、西武なんか負けてしまえ」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1998年3月の日本ハム対ヤクルトのオープン戦で。試合前に談笑する落合博満と野村克也

「監督が苦労する顔というのかな、私と清原君との問題でこれ以上悩む顔は見たくない」と自ら巨人を去った一匹狼に対して、すかさずヤクルトと日本ハムの2球団が獲得に手をあげる。

「プロ野球始まって以来最高の右打者」と称賛する野村監督と、「監督としてあんたと一緒にやるのが夢やった」なんて熱く口説く上田利治監督。当初、マスコミの論調は同リーグで長嶋巨人と戦える「ヤクルト落合誕生」で決定的という雰囲気だ。『週刊ベースボール』96年12月23日号には、野村のこんなコメントが掲載されている。

「ワシの時と、状況がダブって見えてしょうがないんや。功労者をこんな形で辞めさせていいんかい……」

野村克也「ざまあみろ、西武なんか負けてしまえと」

 “プロ野球史上最高の捕手”の野村克也といえども、現役晩年は寂しいものだった。戦後初の三冠王、9度の本塁打王に輝くなど南海ホークスの兼任監督として君臨しながら、77年に突然チームを去った。

 のちに再婚する沙知代夫人の現場介入問題から球団内派閥争いまで、数々の原因が取り沙汰され、野村は『週刊文春』77年10月13日号で、情念と怨念を込めた原稿用紙40枚の独占手記「私はワナにかかったのだ 仕掛人がたくらんだ陰謀を今こそ暴こう」を発表するなど騒動は泥沼化。世間は未知の生物ネッシーで盛り上がるが、野球界は謎の女サッチーが話題になった。怒りから野村ノートや野球道具に自ら油をかけて燃やし、引退も囁かれたが、42歳で金田正一監督率いるロッテ入りを決断する。しかし、新天地で若手選手にアドバイスをしていたら、カネヤンから告げられたのは「コーチの立場があるから、悪いが教えてくれるな」だった。皮肉にも、平社員として出直すには、選手・野村は影響力がありすぎたのである。中年男が積み上げた時間は、偉大な功績の証明にもなれば、ときに足枷にもなってしまう。

 ロッテで1年だけプレーしたのち、79年から新興球団の西武ライオンズへ。西武の堤義明オーナーからは「野球アドバイザーを」というオファーだったが、43歳の野村はあくまで“生涯一捕手”にこだわる。だが、時の流れは残酷だ。プロ26年目の野村の肩は衰え、79年の盗塁阻止率は1割台に低迷する。逆風の中、古巣の南海戦で通算650号を達成。9月20日には満44歳のタイ記録となる5号アーチを放ったのがせめてもの意地だった。そして、翌80年8月1日、本拠地での南海戦で前人未到の大記録、3000試合出場を成し遂げるわけだ。西武球場は最後の花道といった雰囲気だったが、野村はこんなコメントを残している。

【次ページ】 「ざまあみろ、西武なんか負けてしまえと」

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