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野村克也「落合がワシとダブってしょうがないんや」…ノムさんが45歳で“現役引退”を決断した夜「ざまあみろ、西武なんか負けてしまえ」
posted2022/09/08 17:17
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Sankei Shimbun
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<落合は日本ハム、野村は西武と縁遠い球団で過ごした選手生活の最晩年。打順降格や救援捕手の立場を受け入れてでも40代半ばまで現役にこだわったのはなぜか。引き際の選択に見る彼らの生きざま――。>
「入団を想定したキャンプ、オープン戦のことも話題に出たし、感触は十分。もうヤクルトの一員のような気がします」
1996年12月3日、東京・港区の新高輪プリンスホテルで落合博満との第1回入団交渉を終え、野村克也監督は報道陣の前で“共闘”への手応えを口にした。
このとき、落合は時の人だった。96年シーズンは、8月末に死球を受け左手小指を骨折するアクシデントに見舞われながらも、巨人の4番打者として打率.301、21本塁打、86打点と堂々たる成績を残していた。42歳のスラッガーを支えていたのは反発心だ。
「コンチクショー、コンチクショーと思いながら野球をやっていたからさ。何を言っているんだ、このジジイどもって」
落合は自著『不敗人生』(小学館)でそう書く。多くのOBや評論家がしたり顔で“限界説”を語ったが、背番号6はその屈辱を力に変える。冗談じゃない。あんたらに何が分かるんだ……と。いつだって己のバットで野球人生を切り開く。それが、落合博満の生き方だった。
「ヤクルト落合誕生」の雰囲気があった
しかし、96年オフになると西武の清原和博の巨人FA移籍にともない、同じ一塁手の落合の去就が宙に浮く。コーチ兼任での残留から解雇まで情報が錯綜する中、もうすぐ43歳になる大打者は球団フロントと激しくやりあったのち、11月28日にホテルニューオータニで退団会見を開く。隣に長嶋茂雄監督が同席する異例の会見である。
辞めさせられるんじゃなく、自分から退団してやめる。オレは勝ったのさ――。