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我那覇和樹41歳が語る“J5で引退していない理由”と“オシムへの感謝”「必要とされる限り…」「あの記事を読んで僕はサッカーを」 

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木村元彦

木村元彦Yukihiko Kimura

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posted2022/07/16 17:02

我那覇和樹41歳が語る“J5で引退していない理由”と“オシムへの感謝”「必要とされる限り…」「あの記事を読んで僕はサッカーを」<Number Web> photograph by Yukihiko Kimura

インタビューに応じてくれた我那覇和樹

「自分は福井で地域CLを経験して、チームをJFLという上のカテゴリーに挙げる難しさや喜びを知っているので。福井の2年間は目標が達成できなかったのですが、ジェイリースから声をかけていただいて、また同じ目標に向かってやれるというのはプロ選手として幸せなことです。自分自身もまだ身体が動くし、必要とされる限りはその環境を手放したくはないと思っていますので」

——やり残したことはあると思っている?

「そうですね。やっぱり自分が点を取ってチームの勝利に貢献して、上のカテゴリに上げたいという思いはありますね」

——これはガナが引退するまで書き続けたいんだけど、いい? そしてやっぱり最後は川崎で引退試合をやってもらいたい。

「はい、やらせてもらえるなら」

いつもアンテナを張って考えて走っていました

 5月1日、我那覇を初代表に招集したイビツァ・オシムの訃報が飛び込んで来た。前線で走り回り、チームのために身体を張れるストライカーとしてオシムは我那覇を高く評価し、2006年の監督就任直後から、代表戦で起用し続けて来た。

 パルチザン・ベオグラードの指揮官時代に、後にレアル・マドリーのエースとなり、CLの決勝ゴールを決めるプレドラグ・ミヤトビッチを育て上げたオシム。そんな彼はドーピング冤罪事件に巻き込まれたあとも何かと我那覇を気にかけていた。

 2007年5月3日、横浜FC対川崎Fの試合を視察したオシムは「選手が被害を被らない形で、きちんと解決した方がいい」(日刊スポーツ5月4日)と唯一、渦中の被害者を思い遣る発言をしている。さらにはNumberの質問における「最も記憶に残っているゴール」としてオシムは2006年9月6日、アウェイ・サナアのイエメン戦での我那覇のゴールをあげている。

「あの記事、拝見しました。めっちゃうれしかったですよ! 何年も経っているのに覚えていていただいて、もうこれ以上、光栄なことはないですね。ありがたいです。本当にオシムさんの言う通り、キレイなゴールではなかったんですけど、全員でつないで気持ちで押し込んだような一撃だったんでそれは僕も嬉しかったです」

——代表初選出のときはどんな気持ちでした?

「代表に選ばれたのは川崎Fの番記者さんから聞きました。でも手ごたえはあんまりなかったので、最初は冗談かと。僕は若い世代ごとの代表経験がなくて、知っている選手がほとんどいなかったのでどう表現していいか最初は分からなかったですが、途中から(中村)憲剛が入って来てくれました。オシムさんでなければ自分は選ばれていなかったと思います。合宿に呼ばれてプレーの幅が広がったし、多色のビブスの練習なんか、本当に体と頭が疲れました。自分も考えてサッカーをする方だと思っていましたけど、それ以上でした。奥深くて、いつもアンテナを張って考えて走っていました」

——オシムジャパンでは6試合プレーしました。プレーの幅の広がりとは具体的にどんなことを学びましたか。

【次ページ】 オシムさんのご冥福を心からお祈りします

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