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「俺の足は君の足だ」マラドーナが不慮の事故に遭った青年GKに授けた勇気…10年越しの「ありがとう」
text by
藤坂ガルシア千鶴Chizuru de Garcia
photograph byL'EQUIPE/AFLO
posted2021/09/02 11:00
サッカープレーヤーだけでなく、世界中の人々に影響を与えてきたディエゴ・マラドーナ。この稿の主人公、エルナン・フォンセカもその1人である
そして事故からおよそ1年経った頃、トトーラス出身の元プロサッカー選手で知り合いだったフアン・アマドール・サンチェスから夢のような企画があると知らされる。マラドーナがトトーラスでエキシビジョンマッチを行なうというのだ。
「その頃、マラドーナはまだ94年ワールドカップでのドーピング陽性反応から下された出場停止処分期間中にあったから、唯一プレーできたのはインドアサッカーだけで、11人制のサッカーをやりたければエキシビジョンマッチという形でしか参加できなかった。
そこである日、当時一緒にインドアサッカーをやっていたサンチェスに『トトーラスで試合をやろう』と持ちかけたらしくて。地元にマラドーナが来て試合をやってくれるなんて、願ってもない機会だろう? そこでサンチェスはすぐに準備を進めて、実現に向けて動きはじめたんだ」
よっぽどサッカーが下手だったんだな!
こうして96年5月6日、人口1万人足らずの小さな町トトーラスにマラドーナがやって来た。当初、地元の人々は本当に来るのかどうか半信半疑だったというが、予定の時間よりも1時間ほど遅れた午後12時半に到着。フォンセカはサンチェスの計らいからロッカールームに招待してもらい、マラドーナが試合の準備をする間、ずっと傍にいる機会に恵まれた。
「マラドーナは私を見るなり、開口一番『君はGKだったんだって?』と聞いたと思ったら、『よっぽどサッカーが下手だったんだな!』と言って笑った。アルゼンチンでは子どもたちが遊びでサッカーをする時に一番下手な子がGKをやらされる傾向があって、特にマラドーナはいつもGKについて独特の考えを持っていたから、冗談ばかり言って私を茶化しはじめたんだ。
それから私にバッグを持たせて、着替えている間に服やソックスを渡してくれと頼んだり、スパイクを持たせてくれたりしてね。私はすっかり彼のパーソナルアシスタントになったような気分だったよ。
でもその間、私が車椅子を使っている経緯については一切、一言も言及しなかった。あとでわかったのだけど、あの時すでにマラドーナは私が1年前までプロサッカー選手だったこと、事故でサッカーを諦めて、一生歩けなくなってしまったことを知っていたんだ」
マラドーナは、同情をすることもされることも嫌った。「Lástima a nadie」(同情なんて誰に対してもするもんじゃない)という名言を残しているとおり、人生に同情は不要という心情を貫いていたため、フォンセカが置かれた状況を嘆くような真似はしなかったのだ。