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巨人ドラフト事件史「もし桑田真澄が早稲田に進学していたら…」 85年KK騒動と89年大森元木ドラフト
posted2020/10/23 17:04
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
AFLO
人の「記憶」を信用しすぎるのは危険だ。
なぜなら、時間の経過とともに脳内で緩やかに変化していくから。例えば学生時代の同窓会で修学旅行の思い出を話せば、泊まった旅館で出てきた夜飯のディテールが微妙に食い違うし、盛り上がったあの日本シリーズを野球ファン同士で語り合っても、巨人の清原和博が西武の松坂大輔から放った特大ホームランは何年の第何戦だったか曖昧だ。
秋の風物詩、プロ野球ドラフト会議もそうだろう。後追いで記憶をもとに様々な関係者がコメントをする内に当時の現実とは微妙にズレた、もうひとつの事実ができ上がっていく。35年前のあの「KKドラフト」のように。
NTTから鉄アレイのような重さ約3キロの携帯電話ショルダーホンが発売された1985年(昭和60年)、ドラフト会議の注目はもちろん夏の甲子園を制覇したPL学園の“KKコンビ”、清原和博と桑田真澄だった。甲子園歴代最多の13本塁打を放ち憧れの巨人入りを熱望する清原、甲子園通算20勝も退部届けを出さず早稲田大学進学を表明していた桑田。当時の巨人で指揮を執る王貞治監督が持つ868号の世界記録を同じユニフォームを着て追い抜く未来を、清原本人もファンも夢に見た。だが、蓋を開けてみたら憧れのチームは、なんと進学表明をしていた桑田を単独1位指名する。6球団が1位入札した清原は、最終的に西武ライオンズが交渉権を獲得。巨人と盟友に裏切られた傷だらけの18歳のキヨマーは、会見場で悔し涙を滲ませた。
「巨人の桑田指名は予測不能のサプライズだったわけではない」
この一連のストーリーはすでに知れ渡っていると思うが、当時のドラフト前のスポーツ新聞や週刊誌を確認すると、もうひとつの事実が浮かび上がってくる。「巨人の桑田指名は決して予測不能のサプライズだったわけではない」というファクトだ。夏前には巨人スカウト部次長の息子がPL野球部に入部したと書く『PLの桑田、清原を狙う巨人スカウトのマル秘作戦』(「週刊サンケイ」85年8月8日号)という記事が確認できるし、アイドル雑誌「セブンティーン」85年8月20日号では『いよいよ開幕甲子園特集』で、KKコンビがチェッカーズや吉川晃司とともに誌面を飾っている。
当時の世間のふたりへの注目度の高さが分かるが、PLの先輩たちが自然体で語るふたりの素顔は対照的だ。