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巨人ドラフト事件史「もし桑田真澄が早稲田に進学していたら…」 85年KK騒動と89年大森元木ドラフト
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byAFLO
posted2020/10/23 17:04
1985年、夏の甲子園での桑田と清原。決勝で宇部商を破り、2年ぶりの優勝を果たす
「……残念ていうしかないです」4年後の事件
さて、この4年後にも、似たような騒動が起きる。1989年11月26日、平成最初のドラフト会議である。この年、日本一に輝いた藤田巨人は斎藤雅樹や槙原寛己や桑田といった若さ溢れる盤石の投手陣を築いていたため、目玉選手の野茂英雄(新日本製鐵堺)ではなく、六大学リーグの三冠王スラッガー大森剛(慶大)か、高校ナンバーワン遊撃手で甲子園のアイドル元木大介(上宮高)のどちらを1位指名するかで揺れていた。同年限りでの中畑清の引退で、球団はスター内野手を欲していた事情もある。
まだ巨人戦が毎晩テレビで地上波中継をしていた時代、ドラフト前にふたりとも意中の球団としてあげたのは「巨人」。子どもの頃に一緒に写真を撮ってもらった王貞治に憧れた元木のもとには、巨人スカウトから1位指名の話があったはずが、いざ蓋を開けてみると巨人1位は大森、元木は野茂を抽選で逃したダイエーが外れ1位指名する。
「……残念ていうしかないです……。別になにも考える……ていうか頭に浮かんでこないです」
うつむきがちに言葉を絞り出す、元木大介。傷心の17歳はマスコミの過剰な取材から逃れるようにダイエーを拒否してハワイでの浪人生活を選ぶ。ここでも、ヒールになったのは大森である。ドラフト前に「巨人以外なら日本石油かアメリカに留学するって。ボクもその前に巨人じゃなきゃ東京ガスに行くと、同じようなことを言っている。“同じことを言いやがって。高校生のくせに”と思いましたよ。元木はボクより顔はいいかもしれないけど、そんなにカッコイイと思わないです」と『週刊ベースボール』のインタビューで高校生相手に大人げなく宣戦布告をかまし、「ボクは、一流企業で働いて安定した生活をすればいいとも考えたんですが、折角ここまでやったんだから、それならばどこか一つに決めようって。やっぱり、一番人気があって、注目される巨人がいいでしょう」と今なら炎上しそうな際どい台詞を口にする。結果、六大学の三冠王は悪役のマイナスイメージを背負ったままプロ入りするハメになった。
「二軍ホームラン王の大森」と「翌年ドラ1の元木」の“その後”
ただ、当時の大森はサービス精神旺盛で確信犯的にこの手のコメントを発していた節がある。練習が大嫌いで、趣味はファミコンをぼんやりやること。夜の素振りなんて絶対にやらないと豪語。過去の週べインタビューでも「今の六大学に打てないピッチャーなんて一人もいません。ぼくの予定ではこうなるはずだったんです。田淵さんの22本塁打(六大学記録)も破るつもりだったんですから。ちょっと遅かった気もするくらいです」なんてお気楽なビッグマウスを炸裂させている。