マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
「悲壮感のない甲子園」を初めてみた。
もしかすると本当はこの形の方が……?
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byNaoya Sanuki
posted2020/08/22 08:00
観客席がガランとしている分だけ拍手や手拍子はクリアに聞こえてきた。高校野球の原型を見た思いだ。
もしかすると甲子園で野球ができるだけで……。
いったんは失ってしまった甲子園を、再び取り戻した安堵感、そして、ほんとに甲子園で野球がやれたことの喜び。
「たとえば親が死んだ……みたいな怖い夢を見て、目が覚めて、あっ、夢だったんだって思った時って、すごく安心するじゃないですか。あの感じでしたね」
うまいことを言うヤツがいた。「甲子園交流試合」実現の瞬間を、見事に言い表してみせた。
アッ! と思った。
彼らは、本当は、甲子園で試合ができるだけで、十分満足なのではないか。
もしかしたら、その上に、「甲子園優勝」なんて“冠”をくっつけたのは大人の都合であって、球児たちにしてみれば、甲子園まで出てきてなお、勝った負けただなんて、実はどっちでもいいことで、要は甲子園という最高の舞台で、存分に野球ができれば、それで十分なのではないか。
今年の甲子園には悲壮感がなかった。
「悲壮感のない甲子園」を、私は初めて見た。
なんだかとっても辛そうな顔をして「甲子園優勝」を目指す球児の顔は一度も見なくて済んだし、反対に、たった1試合の甲子園なのに、勝った者も敗れた者も、そのほとんどが、とてもすっきりした顔は、「2020甲子園」を語って、帰っていった。
甲子園は、笑って帰る所だ。泣いて帰る所じゃない。
甲子園に出てきただけで、立派な「勝者」だ。それを「敗者」にして帰しちゃいけないんじゃないか。
もしかして、今年みたいに「甲子園」は1回こっきりの“伸びやか勝負”のほうが、主役の球児たちは、本当はうれしいのかもしれない。
何試合もして、せっかくの「勝者」たちがみんな「敗者」になって……本当は、そういうこと、望んでいないのではないか。
甲子園とは、誰のためにあるのか。なんのためにあるのか。いろいろなことを考えさせられた。