プロ野球亭日乗BACK NUMBER
プロ野球にも非常時こその挑み方。
巨人菅野智之は全てを受け入れる!
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byKyodo News
posted2020/06/18 20:00
6月12日、日本ハムとのプレシーズンマッチに先発した巨人・菅野。シーズンへの覚悟をにじませる。
耐え続けた1年間。
2011年のドラフト。
伯父である原辰徳監督が指揮する巨人入りを熱望したが、くじ引きの結果、交渉権を獲得したのは日本ハムだった。熟慮の末に選んだ結論は、1年間の浪人生活という苦闘の道だった。
東海大学の卒業延期制度を使って、学校に籍を置きながら野球部員として練習を続ける日々。しかも全日本大学野球連盟の規定で公式戦はもちろんオープン戦も、社会人などとの対外試合にも一切、出場することを禁じられた。
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後輩たちに混じって、当て所ない1年間を過ごしたが、そこで学んだことは、周囲に左右されずに目標に向けて自分をコントロールすることの重要さだった。
オフには米・アリゾナに飛んでメジャーリーガーの練習などを見学して、様々な話を聞く機会を作った。4月に学校が始まると、後輩たちが授業を受けている午前中はメジャーリーグの中継を貪るように観て、午後の練習ではみんなと一緒のメニューをこなしながら紅白戦やシート打撃に登板した。そしてプロに入ったときを想定して、中6日で1日200球の投げ込みを毎週やり抜いた。
誰に指示されたわけでもない。
決めるのも自分。それを守るのも自分。そういうセルフコントロールの生活を半年間、全うしたのである。
浪人期間は停滞でも退歩でもない。
「それまでの自分は野球には頑固で、こうじゃなきゃと考えてきたところがありました」
後にこのときの生活を振り返って菅野はこんなことを語っていた。
「でも、そうやって自分で考えて様々なことにトライして、色々な野球を観て、色んな考え方を聞くことで、今まで自分が考えてきた野球観とかピッチングへのアプローチだけではなく、もっといろいろな方法や考え方があるなって考えるようになりました」
この浪人期間にワンシームを習得し、フォークに磨きをかけた。現状維持ではなく投手としての更なるレベルアップを図ったわけだ。そうして晴れて12年のドラフトで巨人入りを果たすと、翌13年のシーズンでは25先発と1年間、ローテーションを守り通して13勝6敗と文句ない成績を残した。
あの孤独な1年間は停滞でも、ましてや退歩でもなかった。自分自身をしっかりコントロールして、進化へとつなげる時間として過ごすことができたのである。
プロ1年目の成績はその証しだった。