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私のJ最強クラブ。ポンテが微笑み、
指揮官ギドが叫んだ'06年浦和の衝撃。
posted2020/05/14 20:00
text by
石倉利英Toshihide Ishikura
photograph by
J.LEAGUE
2006年12月2日。埼玉スタジアム2002に到着すると、浦和レッズの関係者が教えてくれた。
「もうチケットは1枚も、本当に1枚もありません。10人収容のボックスシートも、普通なら何席か空くものですが、完全に埋まっています。こんなの初めてですよ」
J1リーグは史上初めて、首位と2位が直接対決で優勝を争う最終節を迎えていた。首位の浦和がホームに迎えたのは、連覇を狙う2位のガンバ大阪。両クラブのファン・サポーターだけでなく、報道陣も大挙詰めかけた埼玉スタジアムは、試合開始数時間前から熱気が渦巻いていた。
監督経験のないギドが就任。
1993年にJリーグが始まって以来、一時期を除いて下位が定位置だった浦和は、21世紀に入って右肩上がりに力を伸ばしていた。
ハンス・オフト監督が就任した'02年、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で初の決勝進出を果たすと、'03年には優勝してクラブ初タイトルを獲得。この年はJ1リーグでもセカンドステージで終盤まで優勝争いを演じ、これまでとは違う姿を見せていた。
'04年、ギド・ブッフバルト監督が就任。現役時代に低迷していた浦和を浮上に導いたとはいえ、監督経験がないことを不安視する声もあったが、選手のときと同様に強いメンタリティとプロフェッショナリズムを求め、チーム力を引き上げていく。
練習試合で大学チームに敗れると、「浦和レッズを名乗るチームが、大学生に負けることは許されない」と厳しく指摘。前年まで連敗が多かったチームはタフになり、黒星を引きずることなく安定感が増した。J1リーグではファーストステージを3位で終えると、セカンドステージで初優勝。チャンピオンシップで横浜F・マリノスにPK戦の末に敗れ、優勝こそ逃したものの、年間勝ち点は1位だった。