松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
北京パラを目指す高田千明が妊娠……。
当時の心境と状況を松岡修造が訊く。
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph byNanae Suzuki
posted2020/03/03 07:00
何度も訪れる高田千明のピンチに思わず松岡修造も絶句! それを乗り越えて、彼女はいかに大成したのか?
「ロンドンまで2年を切ったのに『大丈夫?』」
高田「出産前に体重が16kgくらい増えてしまって、出産後もその体重がほとんど変わらなかったんです。以前からお世話になっているトレーナーの方に『ロボットのようにごつくなったな』って言われて(笑)。走っても体が重いし、前に進まないし、どうしたらいいのって。また大森さんを頼って、チームを移籍したんです」
松岡「そこでまた2人がタッグを組むわけですね」
大森「実際に、また僕が見るまでに2年くらいは経ってましたけど、もうフォームもかなり乱れていたので、いったんすべてをリセットしようと。とりあえず『走るな』という指示を出した記憶があります」
高田「だからみんなが気持ち良さそうに汗をかいている中、私は1人、黙々とジョギングをするだけ。ロンドンまであと2年を切ったのに、『大丈夫?』って思ってました」
大森「ロンドンは標準記録を切ることもそうですけど、世界ランキングで上位にいないと選ばれないルールだったので、内心焦りはありましたよ。でも、上に進むには今の走りではダメだからと。土台から作り直しました」
松岡「それは上手くいったんですか」
大森「タイム的には北京を目指していた頃よりも良いタイムが出せました。ギリギリですが、標準記録も破って。でも……」
高田「ロンドンはダメだったんですよね。他の競技との兼ね合いもあって、標準記録を切った選手が全員出られるわけではなかったので」
松岡「急にトーンが落ち込みましたね。こんなに小さな声を聞くのは初めてです」
高田「本当にこれ以上ないくらい頑張って、でもロンドンがダメで、子どもも大きくなって手がかかるようになるし……」
大森「僕はそこで辞めると思ったんですよ。パラリンピックを諦めると」
高田「両親にもほら見たことかと。あの時、出産を諦めていればと言われて……」
(構成:小堀隆司)
高田千明(たかだ・ちあき)
1984年10月14日、東京都生まれ。パラリンピック陸上競技選手。専門は走り幅跳びと100mで両競技の日本記録保持者。パラリンピックにおける障害クラスはT11(視覚障害・全盲)クラス。2020年東京パラリンピック走り幅跳びの日本代表に内定している。2018年アジアパラ競技大会で走り幅跳び銀メダル。'17年世界パラ陸上競技選手権大会で走り幅跳び銀メダル。'14年アジアパラ競技大会で走り幅跳び銀メダル。'11年、IBSA世界大会で200m銀メダル、100m銅メダル。ほけんの窓口グループ所属。
大森盛一(おおもり・しげかず)
1972年7月9日、富山県生まれ。'92年バルセロナ五輪1600mリレー日本代表。'96年アトランタ五輪では400mと1600mリレーに出場。リレー決勝ではアンカーを走り、64年ぶりの5位入賞を果たす。このときの日本記録3分0秒76は現在も破られていない。日本選手権では'94、'96年に400mで優勝。2000年に引退。'08年に陸上クラブ「アスリートフォレスト トラッククラブ」を設立し、サニブラウン・ハキーム選手を指導した実績も。現在は高田千明選手のコーチ、ガイドランナー兼コーラーも務めている。