“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
選手権最強の初出場・興國高校。
刻み込まれた「テクニックは永遠」。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2019/11/30 11:40
監督就任14年目、興國高校を初の高校選手権出場に導いた内野智章監督。ここ数年は多くのJリーガーを輩出している。
吉原宏太、岡山一成らとベスト4。
高校時代は和歌山県の名門・初芝橋本高でプレーし、吉原宏太、岡山一成らとともに全国選手権ベスト4を経験している。74回大会の準決勝・鹿児島実業戦で足を負傷した吉原に代わって投入されたのが、当時高校1年生だった内野であった。
卒業後は高知大に進学した。プレーする傍ら、家に帰れば海外サッカーの映像を観ることに没頭し、注目する選手のプレーを分析するなど、より深い視点で学ぶようになっていった。卒論でもフランスサッカーをテーマに上げ、欧州サッカーから多くの学びを得た。
特にヨハン・クライフが監督を務めていたバルセロナに強い興味を持ち、ジョゼップ・グアルディオラ、ロナルド・クーマンを擁したドリームチームが繰り広げるサッカーに目を輝かせた。
一方で選手としては大学卒業後に所属した愛媛FC(当時JFL)でプレーするも、体調不良によりわずか1年で退団。選手として苦労する中でも、指導者に光明を見出しながらサッカーを学び続けた。
多くの経験を積み、よりサッカーを知っていくにつれて、「技術レベルが高く、イメージを具現化できる選手を育成したい」という望みが育まれた。そして、興國高をゼロから任された時、それを信念として取り組むことに決めた。
影響を受けたセクシーフットボール。
その過程で内野がもっとも影響を受けたのが野洲高校(滋賀)だ。監督就任を控えた時期に行われた高校選手権で、野洲高は楠神順平(清水エスパルス)、乾貴士(エイバル)らを擁し、全国優勝を果たした。華麗なドリブルや流れるようなパスワークを駆使して、鮮やかに相手を崩していくサッカーは「セクシーフットボール」として旋風を巻き起こした。
「野洲も最初は部員が集まらない中で、コツコツとぶれずにあのサッカーをやり続けていた。その結果、『野洲でサッカーがしたい』と多くの有能選手が集まってくるようになった。うちもそうなりたいと強く思ったんです。当時、大阪でみんなが行きたいと思うような高校は関大一、近大附属、東海大仰星、大阪桐蔭、履正社など、たくさんありました。そこに打ち勝っていくには、野洲のように子どもたちに『あのサッカーがしたいんだ』というものを作らないといけない。
後発とも言える興國が勝つサッカーをやるだけでは厳しいという現実もありました。差別化するための戦略があって、かつ個人的にも『走る』よりも『ボールを触る』ほうが楽しいし、(選手たちが)楽しんでプレーすれば人は惹きつけられると思った。野洲高校に通って、山本佳司監督からは本当に多くのことを学ばせてもらいました」
野洲高のサッカー、そして全盛期だったロナウジーニョがバルセロナで楽しそうにプレーする姿を見て、テクニック重視の攻撃サッカーを志向するようになった。
「覚悟を決めてからは、もう忍耐でした。周りからは『勝てない』などといろいろ言われましたし、逆風もありました。でも、スペインで指導者としての勉強を重ね、周りから共感を得られるサッカーをやろうと思った」