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栗原恵がロンドン五輪落選で考えた、
自分の価値とバレーを好きな気持ち。
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph byAtsushi Hashimoto
posted2019/06/29 12:00
東京五輪を目指す後輩たちには「怪我をせず、最後まで思い描くプレーをしてほしい」とエールを送る。
ロンドン五輪の落選で流した涙。
2004年アテネ、2008年北京と2度、五輪の舞台に立った栗原だが、苦い落選も経験している。2012年は代表合宿に参加するため、ロシアリーグのシーズンが終了する前に帰国し、合流したが、ロンドンでの3度目の五輪出場はかなわなかった。
2012年6月のワールドグランプリ予選ラウンドが終わった夜、大阪の宿舎で、栗原は眞鍋政義監督(当時)に呼ばれた。
「今回は、メグは連れていけない」
その言葉を、栗原は冷静に受け止めていた。
「その時は大友(愛)さんと同室だったんですけど、自分だけが呼ばれたので、もうわかるじゃないですか。練習の雰囲気でも、自分はたぶん選ばれないんだろうなと感じる部分があったので、声がかかった時は“やっぱりな”と。涙も出なかったんですよね。たぶん『わかりました。お世話になりました。ありがとうございました』と言ったと思います。
その次の日、母が心配してわざわざホテルまで迎えにきてくれたんです。そこで母と2人になった時に、初めて泣きました。それまでは気持ちが張り詰めてたんですよね」
「笑わないエース」と言われて……。
引退記者会見では、「ロンドン五輪の選考に落ちた時はすごくつらかったんですけど、一度その時点で背負っていたものがすべて落ちて、本当にバレーボールが好きだったということを思い出せた」と語った。
代表選手としてプレッシャーを背負い続けるうちに、いつの間にか楽しむことから遠ざかってしまっていた。
「どちらかというと、鬼気迫る感じの方が大きくて……。全日本のエースって言われて、どんなふうに振る舞わなきゃいけないのかなと考えすぎていました。
『笑わないエース』という報道がありましたが、そんなことなかったんですよ。試合中も得点したらたぶん笑ってたはずだし、そういうイメージやそういうシーンばかりを報道されると、周りからはこういう自分を求められているのかなとか、そう演じなきゃいけないのかな、こんなヘラヘラしてたらエースと言われないのかなとプレッシャーが強くなって、素直に自分を表現できなくなっていました」