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栗原恵がいま語る17年間の波乱万丈。
「レールを敷かれた人生が嫌いで」

posted2019/06/29 11:55

 
栗原恵がいま語る17年間の波乱万丈。「レールを敷かれた人生が嫌いで」<Number Web> photograph by Atsushi Hashimoto

悔しい時もつらい時も、母からの言葉「凛と」を胸に戦っていた。

text by

米虫紀子

米虫紀子Noriko Yonemushi

PROFILE

photograph by

Atsushi Hashimoto

 バレーボール女子日本代表のエースとして活躍した栗原恵が、6月4日、自身のブログで現役引退を表明した。

 2002年に高校3年で代表デビューすると、2003年のワールドカップで大活躍し、一躍注目を集めた。2004年アテネ、2008年北京と2度の五輪に出場し、2010年世界選手権では銅メダルを獲得した。何度も怪我に見舞われたが、その度に復帰を果たし、34歳まで現役生活を続けてきた。

 現役最後の試合となった5月5日の黒鷲旗準決勝から1カ月以上が過ぎた6月中旬。17年間の波乱の競技人生を、栗原は穏やかな表情で振り返った。

 栗原のバレー人生は、旺盛な向上心を満たすための、決断の連続だった。

 最初の大きな決断は中学生の時。瀬戸内海に浮かぶ能美島(広島県江田島市)に生まれ育った栗原は、中学2年の時、姫路市の強豪・大津中学校へと転校し、そこからバレー人生が大きく動き出した。

島を出て、中学生が1人で留学。

 島で育った少女が、親元を離れて単身でバレー留学するというのはとてつもなく勇気のいることだった。その時の衝動と不安を、栗原はこう回想する。

「私の出身地は本当に田舎で、毎日海で泳いでいるような子供でした。でもすごくバレーが好きで、バレーボール入門編みたいな漫画をずっと読んでいたんですが、その主人公が全日本選手になるんです。自分も、いつかそうなりたいという憧れを抱きながら生活していた。だから強豪校から誘いがきていると聞いた時は、すごく嬉しかったです。

 両親と一緒に見学に行かせてもらうと、自分が島で経験していたバレーボールとはまったく違いました。その厳しくて強いチームを見た時に、こんな上手な子たちがいるんだと、憧れの気持ちを強く持ちました。自分もここに入ったら、その子たちみたいになれるのかなと期待を抱いて、その時はすごく前向きでした。

 でも家に帰って、じゃあどうする? となった時に……、親は一緒に行けないから、行くとなったら単身で、学校も転校しなきゃいけない。父親に『本当に大丈夫なの?』と聞かれると、ひたすら泣いていました。『行きたい。けど怖い』って。そんな私を父は見かねて、『そんなに泣くぐらいだったら、行かなくていい。行っても絶対すぐ帰ってくるって言うだろうし、もう行くな』と言われてしまいました」

【次ページ】 母に言われた「どっちを選んでも後悔する」。

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