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「ヒョウ柄の水着」で話題を集めた選手の告白「恥ずかしいという気持ちは全くない」“ビーチの女豹”浦田聖子が語るビーチバレーのユニフォーム改革
posted2025/03/17 11:02

“ビーチの女豹”の愛称でも親しまれた浦田聖子さん
text by

吉田亜衣Ai Yoshida
photograph by
L)Shiro Miyake、R)Sankei Shimbun
かつて春高ヒロインとして注目を浴び、強豪・NECレッドロケッツを経てビーチバレーの世界で闘った浦田聖子。NumberWebインタビュー第2回では、オリンピック出場を目指したビーチバレー時代の秘話を聞いた。《全3回/第3回に続く》
浦田聖子はバレーボールで培ってきた9年間のキャリアをきっぱりと脱ぎ捨てた。2002年初夏の訪れとともに、ビーチバレーでのオリンピック出場を目指し、新たな生活をスタートさせた。当時21歳だった。
「環境面がガラッと変わりました。ずっと寮生活だったので、一人暮らしは家賃や水道代、光熱費などこんなにお金がかかるのか、と大変でした。悪天候の日は海で練習できない日もあって、『1日休んだら3日分遅れる』と言われて育ってきた私にとっては、どうしよう、どうしようと不安しかない。監督やコーチも結成当初はいなかったですし、世界の選手と戦いたいと思って転向したけれど、戦うまでの準備もできていない状態。初年度は椿本さんと一緒に組んで、『なんで体育館ではできていることが砂の上ではできないんだ?』と2人でクエスチョン状態。始めたばかりの頃は、戸惑うことばかりで世界を転戦していても結果は出ませんでした」
浦田のプレーが見違えたきっかけ
2年目からシドニー五輪4位に輝いたベテランの佐伯美香とペアを組むことになった。そこから浦田のプレーは見違えるように変わった。しなやかに、ダイナミックに。豊富なジャンプ力も際立ち、スパイクやジャンプサーブもより力強さが増し、砂の上で躍動した。
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「テル(佐伯)さんと組んだことは大きかったですね。テルさんから、動けるようになるには3年は必要だよって言われていて。『3年もかかるの?』と思いました(笑)。テルさんは言葉で教えるよりも背中で見せてくれるタイプ。テルさんの真似をして動くと実際できるようになる。中学校時代に味わった練習すればうまくなる、という感覚をビーチで味わうことができたんです。大変な部分もありましたけど、面白いと思えるようになりました」
まるでスポンジのように、佐伯からビーチのいろはを吸収していった浦田は、2004年のワールドツアー大阪大会で7位タイに入るなど存在感を発揮し始めた。その後、アテネ五輪に出場した当時のトップランカー・楠原千秋ともペアを組んだ。ベテランたちとのシーズンを経て、浦田は同じくVリーグから転向を遂げていた鈴木洋美と2007年からペアを組むことになった。
「ヒョウ柄の水着」にはコンセプトがあった
ちょうどこの頃だった。『ビーチの妖精』として浅尾美和がメディアに登場。シーズン中は毎週のように国内ツアーの結果が露出されるようになった。