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ロッテ根元俊一、35歳での引退。
その原点は花咲徳栄時代にあった。 

text by

永田遼太郎

永田遼太郎Ryotaro Nagata

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photograph byKyodo News

posted2018/10/31 17:00

ロッテ根元俊一、35歳での引退。その原点は花咲徳栄時代にあった。<Number Web> photograph by Kyodo News

現役時代、ともにプレーした井口監督から労をねぎらわれる根元俊一。今後はコーチとしてチームに残る。

飛躍を促したロングティー。

 しかし、高校進学後の根元は、同校に集まった選手たちのレベルの高さに愕然としたという。

「同学年の選手たちが練習でバンバン打っていて、その一方で自分は内野も越えないような打球ばかり打っていて滅茶苦茶恥ずかしかったです。でも、僕を誘ってくれたコーチがそれからも付きっ切りで僕を教えてくれたりして……」

 このコーチこそが花咲徳栄の現監督である岩井隆だった。

 当時、岩井コーチは根元と同じ寮で生活をしていた。

「グラウンドのすぐ横が寮みたいなところで、何時でも練習ができる環境だったんです。自分は全体練習が終わってからボロボロになったボールにテーピングをグルグルに巻いて、その重くなったボールをロングティーしていたんです。バットもヘッド部分に釘を打ち付けて重たくした状態で……。それを毎日欠かさず続けていたら、一冬越した紅白戦でいきなりホームランを打ったんです。そこから急にバッティングが楽しくなって、練習もさらにするようになりました」

 ひとつの成功体験が、少年を大きく変えたのだ。

 高校3年時には主将と併せて生徒会長も任されるほど、思いやりとリーダーシップに長けた選手へと成長、その夏には甲子園出場も果たした。

「井口さんに勝つ。それだけ」

 その後、彼は東北福祉大に進学し'05年の大学生・社会人ドラフト3巡目で千葉ロッテに入団するのだがプロ入り後も野球に対する貪欲な姿勢は変わらなかった。

 プロ3年目の'08年には110試合に出場し、打率2割9分6厘と好打率を残した根元。そのオフにはアメリカから凱旋帰国した井口資仁(現千葉ロッテ監督)とセカンドのポジションを争うこととなったが、いわゆる芽が出かかっている状態で井口とポジションを争うことになった過酷な状況について、彼はなんの不満も漏らさずこう言った。

「僕が井口さんに勝つ。ただそれだけのことじゃないですか」

 その壁の大きさがどれほどのものであるか、彼自身が十分に分かっていたはずである。それでも根元はポジティブに考え、自身の気持ちを奮い立たせ、グラウンドに立ち続けた。

 二軍降格となっても、ロッテ浦和の室内練習場で遅くなるまでバットを振る。高校時代に成り上がった当時の経験が彼を支えた。

【次ページ】 30歳以降の自分との向き合い方。

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