“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
本田圭佑のビジネスの原点は能登?
星稜・河崎監督が尽力した大会とは。
posted2018/08/26 08:00
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph by
Takahito Ando
真夏の石川県はサッカー関係者達であふれ返る。中でも能登半島の中部に位置する和倉温泉は、ジャージを着た選手、スタッフで活気を増す。
「石川県ユースサッカーフェスティバル」
この大会は星稜高校サッカー部監督の河崎護が中心となって展開される、ユース年代最大のフェスティバルだ。ユース年代のサッカーに関わる人物であれば、その名を知らない者はないほど認知されている。
高校サッカー界で名将と呼ばれている人たちの多くは、「自分の学校の強化に努めているだけではダメ」と考えている。その考えを、より大きなスケールで実現しているのが河崎護という男なのである。
「高体連(高校のサッカー部)は部員数が多いので、選手全体を見なければならない。いち監督ができることとなると、マネジメント力をどう発揮するのか、ということになる。例えば、子供たちのために練習試合をマッチメークすることも重要な力の1つです。自分の学校のことだけを考えれば、1チーム呼んでAチーム戦、Bチーム戦の2試合をやればこと足りるのですが……。
でも今は週休2日制です。土日を活用すれば3、4チームは呼べる。そこで合宿のような形にすれば、さらなる交流、強化試合が生まれてくる。その段階まで行くと、今度は地域全体の強化、活性化を視野に入れたマネジメントに切り替わってくるはずなんです」
「地元・石川で強化できないか」
河崎が同校監督に就任したのは、33年前の1985年。当時、石川県は“サッカー不毛の地”と呼ばれ、強化試合に来てくれる強豪はどこもなかった。そのため、河崎はマイクロバスで部員を乗せて、積極的に県外へと出て試合をこなした。こうした長年の地道な強化が実り、星稜はメキメキと力をつけていった。
それとともに、河崎は当初から「地元・石川の地でチーム強化ができないか」とも考えていた。そこで目をつけたのが、就任2年前から開催されていた「金沢フェスティバル」だった。
同大会は、県外チームを招待して2年間にわたって8月に行われていたものの、河崎が監督に就任した年に大会そのものの終了が決まっていた。ちょうどその年は石川県でインターハイが開催されていたのだが、もともとこの「金沢フェスティバル」はそのインハイに向けての県内チーム強化が目的だったからだ。
「せっかくの大会を失くすのは星稜にとっても、石川県にとっても大きな損失だと思った。だからこそ、自分が身銭を切ってでも続けないといけないと思ったんです」
河崎は当時25歳。これまで参加してくれた県外強豪に直接交渉し、グラウンドと宿泊先の確保に奔走した。星稜のグラウンドと校舎を活用し、まさに自力でフェスティバルを継続させたのだ。