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最初の5年は天国、後の5年は地獄。
浅尾拓也、肉体改造から復活を期す!
posted2017/03/02 07:00
text by
伊藤哲也Tetsuya Ito
photograph by
Kyodo News
観客も報道陣もまばらな中日の二軍、読谷球場のブルペン。背番号「41」は周囲の視線を一切気にすることなく、遮二無二、腕を振っていた。
「肩の状態も悪くないし、できることを必死にやって、一軍に呼ばれる状態にしたい」
言葉こそ穏やかだが、その心中は危機感が充満しているのは想像に難くない。
昨季は、右肩痛に悩まされプロ10年目で初めて一軍登板なし。もちろん昨年に限らず、落合政権時代にまばゆいばかりの光を放っていたイケメン右腕の面影は、ここ5年、陰を潜めているといっても大袈裟ではない。
少しばかり時計の針を戻してみよう――。
「中日以外なら社会人に進む」宣言でドラゴンズへ。
常滑北高校時代は、まったくの無名。日本福祉大に進むと毎年のように球速がアップし、4年次には152キロを計時して一躍、ドラフト候補生に躍り出た。
西武やヤクルトが強い興味を示したが、浅尾自身は「中日以外なら社会人に進む」と地元球団への強い愛着を示し、言葉通りにドラゴンズブルーのユニホームに袖を通した。
新人でしかもプロとしては物足りなさを感じた細身の体型ながらも、身体能力はトップクラス。
現監督で当時、投手コーチを務めていた森繁和もこの男に明るい将来を見いだし、経験を積ませるため次々と登板機会を与えていった。
「球が速かったのもそうだけど、フィールディング、けん制、走者を釘付けにする技術……何をやらせてもセンスは抜群だった」
1年目は4月から起用して19試合、2年目は44試合、3年目は67試合に登板。
絶対的なクローザー・岩瀬とともに押しも押されもしないセットアッパーに成長した。