リオ五輪PRESSBACK NUMBER
リオでベスト8の渡嘉敷来夢が残した夢。
「2人揃えば東京五輪でメダルが取れる」
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph byJMPA
posted2016/09/05 17:00
リオ五輪、準々決勝。アメリカと激闘を繰り広げた直後の渡嘉敷と吉田。2人が揃って世界で戦う光景は、再び見られるのか?
2012年7月1日――渡嘉敷来夢は涙を流した。
身長193cmという抜群の高さとスピードを兼ね備えた渡嘉敷が、五輪に出たいと本気で思い始めたのは、「2012年7月1日」のことだ。
ピンポイントで日付が出てくるのは、この日が、ロンドン五輪世界最終予選のラストマッチだったからだ。日本は残り1枠となっていたロンドン五輪切符を懸けてカナダと対戦し、敗れたのだった。
'12年1月に左足首を手術したことで戦列から離れていた渡嘉敷は、テレビの向こうで涙に暮れるチームメートの姿を目にし、衝動にも似た思いが芽生えるのを感じた。気づけば、遠くトルコ・アンカラのコートに立っている“仲間たち”以上の涙が渡嘉敷の頬を伝っていた。
実業団入りして2年目だった'11年8月に長崎で開催されたアジア選手権兼ロンドン五輪アジア予選に出場し、五輪切符を逃したときも、もちろん悔しい思いをしている。だが、'12年7月の感情はその比ではなかった。
「テレビには今まで一緒にやってきた選手の姿が映し出されていた。その姿を見て私は初めて『みんなと一緒にオリンピックに出たい』と思った。それまでは、日本を引っ張るという気持ちになったことはない。みんなが頑張っている姿が自分を変えた」
吉田と渡嘉敷が揃うと、無類の強さを発揮した日本代表。
こうして迎えた翌'13年10月、渡嘉敷は、リオ五輪を目指して新たに発足した日本代表チームの一員としてアジア選手権に出場した。胸の奥にはそれまで感じたことがないほどの意欲があった。
JX-ENEOSのチームメートであり、4学年上のPG吉田とのコンビネーションで世界に名乗りを上げられるのではないかという手応えをつかみつつあったからだ。
渡嘉敷が思い描いていた通り、速攻時の吉田のレーザービームパスやノールックパスはアジアを席巻した。セットオフェンスでは渡嘉敷が獅子奮迅の働きを見せた。
ポイントガードの吉田とパワーフォワード渡嘉敷のコンビは、日本が43年ぶりにアジア選手権優勝を果たす原動力となった。