野次馬ライトスタンドBACK NUMBER
ヤクルト芸術家・ながさわたかひろ。
一場退団で遂に40歳で現役引退か!?
text by
村瀬秀信Hidenobu Murase
photograph byHidenobu Murase
posted2012/12/04 10:30
『美術手帖』で連載ページを持つなど、芸術家として評価が高いながさわ。2013年2月に開催される「第1回京都版画トリエンナーレ」への出品も決まっている。
四十路を迎えた自分でも「ヤクルトの力になれると思う」。
食事は粗食。「選手になりたいんです!」と球団に陳情しても、笑顔で相手にいなされ、“選手”としての定義すら失われた。
7月には40歳を迎え、「俺は一体何をやってるんだ?」という疑念が何度も襲い掛かってくる。それでも続けることができたのは何故なのだろうか?
「そりゃあ何度も挫けそうになりましたよ。ふと冷静になって考えるとバカじゃないですか。それでも何故続けられたか、人が見てくれたからです。『ダメだ、もう描けねぇよ』ってなると、作品を全部つめこんで見せに行くんです。『僕は選手としてこういう作品を作っています。チームの力になれると思うんです。選手としての僕に言葉をください』って。ヤクルトの帽子をかぶって。これもバカですけど。でもね、そこで言葉を貰えると、翌日やる気になっているんですよ。どんなにオナカが空こうとも、これ以上の力の源はなかったですね」
やがて、厳しい生活の中でもペースを掴んだながさわは、快調に作品を積み重ねていく。余計なものを捨て創作活動に没頭していると、やはりヤクルトの調子も上り調子に。そして夏が過ぎ、秋になる。CSが見えた頃、事件が起こった。
父の訃報で帰省する車中のラジオで聞いたヤクルト戦。
9月16日深夜。山形の母親から電話が鳴る。父・茂さんが危篤。突然の報せに帰郷せざるを得なくなったながさわは、全試合観戦の戦線から離脱。翌17日、一時容態が持ち直し帰京するも、2日後の19日午前11時に永眠の報せを受け、再び山形へ。弟の車に同乗し、東北道でラジオを弄っていると、決して聞こえるはずのない音が耳に届いた。
「その日はマツダでの広島戦でしたから、あぁ、今日はラジオも聴けないかと諦めかけていたんですけど、福島のあたりで野球っぽい音が聴こえるんです。よく聴くと『RCCカープナイター』と言ってる。何で東北で広島のラジオが入るのかわからなかったんですが、1試合まるまる聴くことができたんです。奇跡ですよ。親父が亡くなってるから、そういう風に関連付けるんだろうけどね。ただ、葬式の日の夜、実家でヤクルト×巨人戦を見ていたら優勝して胴上げでしょ。親父ジャイアンツファンだったし、そういうことなんだろうなぁって感じましたよ。
親父、俺の活動に対しては何も言いませんでしたけどね。ただ、俺が記事に取り上げられると、雑誌なりを買っていたみたいです。俺には『その道でやっていけ』という風に聞こえましたよ」
父の葬式を終え、東京に帰ったながさわは、再び作品に向かい合う。山形に帰っている間の試合、はじめてプロ野球の試合以外の個人的な風景として父の死を描いた。そこからラストまで、試合を観戦しに出掛けることも、有名人に一筆貰いにいく時間も惜しんで、ただひたすら“試合の絵を描くこと”のみに没頭していく。