野球善哉BACK NUMBER
天才・前田智徳が帰ってきた!
その“一射絶命”の精神が広島を救う。
text by
氏原英明Hideaki Ujihara
photograph byTamon Matsuzono
posted2010/05/26 12:35
「一射絶命」という言葉をご存じだろうか?
弓道における正しい心のあり方を示す言葉である。ベースボール・マガジン社発行『一射絶命』(ケネス・クシュナー著)には、この言葉の意味をこう記してある。
「どんなことにでも、自己のすべてを尽くしてぶつかってゆくのだ。どんなことも、この世でただ一つのこととして行うのだ。弓で言えば、この一本の矢を射ることが一生で一度しかないこととして、すべてをこの一箭にかける」
この言葉がまさに似合う、一打に懸ける男の姿が、今シーズンのセ・リーグにある。
広島・前田智徳である。
現役生活21年、イチローをはじめとした幾多の一流打者から「天才」と一目置かれながら、故障でシーズンの多くを棒に振った孤高のヒットメーカー。常に全力プレーを心掛け、自分を厳しく律する彼の姿は弓道の心に似ている。
その前田智が、ここ数年で一番の活躍をしている。
特にこの1週間の彼の活躍は、広島ファンの心を射た。
5月19日の対オリックス戦。約2年ぶりのスタメン出場を果たした前田智は、その第1打席で右翼線を破る二塁打を放ち、前日に2-11と大敗していたチームに蔓延する重たい空気を振り払ったのである。
試合は8-2で勝利。開幕から不振で苦しんでいた選手会長・石原が本塁打など3打点の活躍をするなど、前田智の一打が与えた影響は単なるヒット以上に大きかった。チーム快心の勝利だった。
悲運の天才はブラウン前監督には理解されなかった。
前田智ほど「悲運」として、語られる選手はいない。
'89年のドラフト4位で広島に入団。1年目に初出場、初安打。2年目の開幕戦の初打席で初本塁打を放って、レギュラーを獲得。チームの顔になった。ゴールデングラブ賞、ベストナインをそれぞれ4回ずつ受賞。オリックス時代のイチローが「憧れの選手」に前田智を挙げるほど、彼の走攻守のパフォーマンスはずば抜けていた。
それが'95年、試合中にアキレス腱を断裂。そこから不遇の日々が始まった。復帰を果たすも、故障を繰り返して満身創痍の戦いが、彼には付きまとった。それでも、'02年にカムバック賞を受賞するなど、その底知れぬ忍耐力は多くの感動を呼んだ。しかし、'07年に2000本安打を達成したものの、ブラウン前監督が若手を重用する起用法から、故障を抱えた前田智の出場機会は激減。'09年は1打席もバッターボックスに立つことなく、シーズンを終えていた。