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西本幸雄と江夏の21球。
~悲運の名将を偲んで~ 

text by

松井浩

松井浩Hiroshi Matsui

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posted2011/12/09 06:00

西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~<Number Web> photograph by Sports Graphic Number

ノーアウト満塁……喜びを隠せない表情の西本。

 江夏が一つけん制球を投げた後の4球目、一塁ランナーの藤瀬がスタートを切る。西本の選んだ作戦は、ヒット&ランだった。

 ところが、アーノルドが、アウトコースに外れたボールを見送ってしまう。ランナーの藤瀬は、わずかにスタートを遅らせていた。誰もが、貴重なランナーを殺したと思った。しかし、キャッチャー水沼の送球が、二塁の手前でワンバウンドしてセンターへ抜けていった。藤瀬は、一気に三塁へ進む。近鉄ベンチが大騒ぎをしている。思わずベンチを飛び出した西本も、苦笑いを浮かべる。ノーアウト三塁。ツキは、完全に近鉄の側にあった。江夏は、アーノルドを歩かせ、ノーアウト一、三塁となった。西本は、一塁の代走に吹石を送った。

 江夏は、マウンド上で「1点はしゃあない」と思った。しかし、広島ベンチは、1点もやらないという前進守備を選択する。これで、一塁ランナーの吹石が盗塁をしやすくなった。

 次のバッター平野光泰に対しての、ワンストライク、ワンボールからの3球目に、吹石は悠々と盗塁する。西本は、一塁ランナーもスコアリングポジションへ送った。広島ベンチは、即座に平野の敬遠を指示。平野が一塁へ歩いて、ノーアウトで満塁となった。ベンチから、西本が笑いださんばかりの表情で出てくる。

「勝ったと思ったよ。ノーアウトで、ランナーが三人も出とるんや」

「そりゃあ、勝ったと思ったよ。ノーアウトで、ランナーが三人も出とるんや。しかも、3割バッターの佐々木が残っとった。ええバッターが残っとったと思ったよ」

「代打、佐々木」を告げる。西本は頭の中で、「ストライクは、三つとも振れ。外野フライで同点や」と考えている。

 その西本の視線の先で佐々木は、しかし、全く別のことを考えている。佐々木は、シリーズ直前の練習で右の太もも裏に肉離れを起こし、完治していなかった。

「だから、ゴロ打ったらアカンと思っとるわけ。思い切り走れないから、ゴロやったらゲッツーやん。ゲッツーだけは避けなアカン、と」

 西本が、ネクストバッターズサークルの佐々木に歩み寄る。この時、西本が佐々木に「外野フライでええぞ」と声をかけていれば、佐々木は、もっと楽な気持ちでバッターボックスに入れたのかもしれない。しかし、西本のかけた言葉は、全く違っていた。

「サインをよう見とけ」

 西本は、そうささやいた。

「監督が、あの場面でそれだけしか言わんかったら、普通はスクイズやん。スクイズがあんのか、そう思う。でも、すぐにノーアウト満塁ではありえないと思った」

 佐々木が、右のバッターボックスに入る。

「スクイズはない。打つだけや。オレが決めたる。サヨナラヒットや」

 バッターボックスに入る直前に、佐々木の気持ちが右に左に大きくブレた。

佐々木にとって「生涯で最も悔いの残る一球」。

 江夏が、第1球を投げ込む。内角低めのカーブ。打ち気の佐々木のバットが動いたが、辛うじて止まった。

 ワンボール。

「ワンボールになって、監督の『サインよう見とけ』という声がよみがえってくんねん。『そうや、スクイズがあるかもしれん』。そう思って、『一球待ってみよう』と思ってしまった」

 監督と選手の間に、気持ちのズレが生じていた。物事の破綻というものは、実は、その少し前から静かにゆっくりと始まっている。西本の采配の破綻は、この瞬間から始まったのかもしれない。

 その直後、佐々木は悔やんでも悔やみきれない体験をする。江夏の投じた2球目が、ド真ん中のストレートだったのだ。

「『しまった』と思ったよね。甘い球やった。でも、『一球待ってみよう』と思とるから、手が出なかった。心の動揺は、半端じゃなかったよ」

 佐々木にとって「生涯で最も悔いの残る一球」となった。ベンチでは西本が「なんで振らんのや」と天を仰ぐ。

【次ページ】 佐々木が甘い球を見逃すきっかけとなった西本の言葉。

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