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西本幸雄と江夏の21球。
~悲運の名将を偲んで~
text by
松井浩Hiroshi Matsui
photograph bySports Graphic Number
posted2011/12/09 06:00
佐々木が甘い球を見逃すきっかけとなった西本の言葉。
「佐々木の技量があれば、楽々外野フライを打てた」
西本は、そうも思っている。しかし、佐々木が甘いボールを見逃すきっかけとなったのは、西本の頭の中にある言葉と、口をついた言葉が違っていたことだった。西本が思わず「サインをよう見とけ」と話した時、西本の頭の中には19年前の満塁スクイズ失敗のシーンが、すでにチラついていたのかもしれない。
バッターボックスで佐々木は、「困った表情を江夏さんに悟られてはいけない」と、必死でポーカーフェイスを装っている。
「3球目は、どんなボールでも打つという気持ちやね。速いボールのタイミングで待っといて、遅いボールにも対応しようと。そこへ遅いカーブが高めに来た。バットを振ったら、ちょっと早かった」
ワンバウンドした打球が、サードへ転がっていった。
「ああ、これはゲッツーやと思た」
しかし、次の瞬間、佐々木の目がパッと見開く。
「やったー、サヨナラや」
打球が、ジャンプするサード三村敏之のグラブをかすめてレフトへと抜けていった。
近鉄ファンから大歓声があがり、紙吹雪とテープが投げ込まれる。西本がベンチを飛び出す。しかし、三塁塁審の判定はファウル。西本の足が止まり、顔がこわばった。西本は立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
「オレはまだ完全に信頼されてるわけじゃないのか!」
実は、この時、広島の古葉竹識監督と江夏の間でも、気持ちにズレが生じていたことを西本は知らなかった。江夏はバッターに集中できていなかったのである。『江夏の21球』から引用してみたい。
〈 江夏は、三塁側、自分のベンチの動きも見逃すことがない。池谷がピッチング練習を始めたのも見ている。さらにそのあと、北別府もブルペンに向かって走っていくのも江夏は見ている。
《 なにしとんかい! 》
江夏はそう思った。それにはいろいろな思いがこめられている。
《 このドタン場に来て、まだ次のピッチャーを用意するんかいうことですね。
そうか、オレはまだ完全に信頼されてるわけじゃないのかと、瞬間、そう思った。
ブルペンが動いた。なんのためにオレはここまでやってきたんや。そう思って、釈然とせんかった。ブルペンが動くとは思っていなかったからね 》 〉
しかし、古葉の指示は、しごくまともに見えた。7回の途中にマウンドへ上がった江夏は、すでに3イニング目に入っていた。また、同点で延長戦に突入することも考えれば、交代のピッチャーも用意しなければならない。古葉は当然の準備を始めたにすぎなかったが、結果的に江夏の気持ちをかき乱すことになった。佐々木への2球目に、江夏がふと甘いストレートを投げた背景にはこうした事情もあった。三塁線ギリギリのファウルとなった3球目も、インコース高めの甘いカーブだった。
だが、そんな江夏を、チームメイトのひと言が救う。
江夏が佐々木を2-1と追いこんだとき、衣笠がマウンドに近寄った。そこで衣笠はこういったのだ。
《 オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな 》
江夏がいう。
《 あのひとことで救われたいう気持ちだったね。オレと同じように考えてくれる奴がおる。オレが打たれて、何であいつが辞めなきゃいかんのか、考えてみればバカバカしいことだけどね。でも、オレにはうれしかったし、胸のなかでもやもやっとしとったのがスーッとなくなった。そのひとことが心強かった。集中力がよみがえったいう感じだった 》
衣笠のひと言が、江夏のピッチングを完全に蘇らせた。
面白いデータが残っている。江夏の投げるストレートの「球速」である。気持ちがかき乱されている時、江夏のストレートは130km台前半しか出ていない。ところが、いったん開き直ってしまえば、とたんに130km台後半へと跳ね上がるのである。もちろんプロのピッチャーとしては、130km台後半のストレートでも遅い部類に入る。しかし、江夏は、鋭く曲がり落ちるカーブのキレとコントロールに絶対の自信をもっていた。ストレートの球速が5~7kmアップするということは、このカーブの威力を倍加させるという意味も持っている。
衣笠のひと言は、江夏を冷静にさせただけではなかった。それ以降の江夏のピッチングを左右するほど大きなターニングポイントになった。ツキが、広島のものになった瞬間でもあった。