#1020
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「グラウンドからは悲鳴や絶叫が響いてくる」慶應義塾大学ラグビー部の流儀と友情~1985年主将・中野忠幸の背負ったもの~
2023/10/16
日本ラグビーの「ルーツ校」が、社会人を破って日本一に輝いた。その強さの礎となったのは、日吉や山中湖で繰り広げられた常軌を逸したトレーニングだった。当時の主将が抱いた“覚悟”を語る。(初出:Number1020号慶應義塾大学「友情よりも日本一」~1985年主将・中野忠幸の背負ったもの~<ラグビー名門大学の流儀>)
早慶戦前夜。日吉のグラウンドは殺気立っていた。レギュラー陣が合宿所で粛々と試合の準備を進めていると、グラウンドからは悲鳴や絶叫が響いてくる。ジャージをもらえなかったメンバーが「盛り上げ練」と称して、文字通り倒れるまで走り続ける。そのうち、救急車のサイレンが響く。
1985年の慶應。前年、大学選手権決勝で「幻のスローフォワード」によって平尾誠二、大八木淳史らを擁する同志社に敗れたタイガー軍団は、監督は上田昭夫の続投、右プロップの中野忠幸を主将に据えてシーズンイン。対抗戦は4位だったものの、大学選手権決勝では明治と引き分けて両校優勝。抽選で出場した日本選手権ではトヨタ自動車を破り、1899年の創部以来初の日本選手権優勝を手にした。
現在、東京港区のオフィスに勤務する中野は、黒黄のネクタイをして現れた。「こういう時しか、このネクタイをする機会もなくてね」と微笑む。
「慶應ボーイ」たちがなぜ、泥にまみれた練習を
長年、慶應の卒業生の話を聞いてきたが、50代を迎え、メガバンクの役員や企業のトップに立った人も多く、例外なく穏やかな表情を持つ。しかし、彼らは日吉で狂った時を過ごした。幼稚舎から慶應で育った人間もいるから、環境は恵まれている。練習が終われば自由が丘や六本木に出かけ、休日には愛車でサザンやユーミンを聴きながら湘南までドライブへ行くいわゆる「慶應ボーイ」たちが、なぜ、泥にまみれた練習を厭わなかったのか。もっと楽な大学生活だっておくれたはずなのに。中野はいう。
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photograph by Bungeishunju