宿敵・早稲田との因縁の対決を制して、2年ぶりの大学日本一。「明治史上最高の主将」と称されるそのキャプテンシーは、果たしていかなるものだったのか。同期の戦友が激動の1年を回想する。(初出:Number1020号名門大学の流儀(2) 明治大学 吉田義人 その男、絶対につき。)
急にきつい仕事になった。ことに冷える午後には。スポーツ新聞の担当記者はいつか体に変調をきたすと覚悟した。
1990年度の明治大学ラグビー部。
東京都世田谷区八幡山の黒い土のグラウンド。練習が終わらない。午後1時、あるいは2時。そのころに始まるトレーニングは日没まで続いた。みんな、いつ授業へ通っていたのか。それは別のお話。
長時間の厳しい練習は好敵手の早稲田、慶應のいわば「定番」であった。楕円球の俊秀これでもかと集う明治は比べればずいぶん短く、八幡山の帰りには明るいうちに喫茶店でくつろげた。
あのシーズン。様変わりした。
春はましだった。まあ脚が棒になるくらい。秋が訪れ、しだいに寒さが増す。すーっと透明な鼻水を垂らして耐えた。ラグビー人気に従い、いつも3、4人はいた各社の取材者は肩を寄せて立ち続けた。競争しているのに同士のようだった。
誰を待つのか。キャプテンだ。
吉田義人。すでに日本代表のエース級のWTBであった。背番号は絶対に「11」。左の太ももには絶対に「青色のサポーター」。個人鍛錬を欠かさぬためにグラウンドを去るのは絶対に最後だ。ときにNHKの夜のニュースの始まるころ、ようやく話を聞けた。
あれは春先の某日。合宿所の玄関を背に新主将は言い切った。
「僕らが高校日本代表に選ばれたのは努力したからですよ。それが大学に入ると安心して練習しなくなり、早稲田や慶應の無名選手に抜かれちゃう。明治が早慶より練習したら絶対に日本一になれる」
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photograph by Masato Daito