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「月給は4万5000円」「2度の戦力外」森保一監督が歩んだ挫折だらけの名将道…カラオケの十八番は?「福山雅治を歌える柄じゃ…」取材歴35年記者が見た素顔
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久保武司Takeshi Kubo
photograph byKiichi Matsumoto/JMPA
posted2026/06/26 17:00
日本代表を3大会連続の決勝トーナメント進出に導いた森保監督
公式記者会見では「自分は本当にひどいことを伝えているな……」と涙ぐみながらの謝罪があり、日本代表の公式ドキュメンタリー「Team Com」では本来なら非公開にしてもいい「遠藤離脱」をチームに通達したミーティング映像も公開した。
それをさせているのは、森保監督がこれまで歩んできた道のりだ。1987年4月、J1広島の前身「マツダSC」に入団。本社採用ではなく、6人のうち森保だけが子会社の「マツダ運輸」に配属された。「月給は4万5000円。いまでも梱包や荷造りには自信があります」と笑う。
「あんな辛い思いは…」ドーハの悲劇は原点
その後のサッカー人生は、常に挫折と隣り合わせだった。その最たるものがW杯イヤーになると必ず話題にあがる「ドーハの悲劇」である。森保監督はその瞬間にピッチに立っていたどころか、相手の決定機をクリアすることができなかった自分のプレーでW杯初出場を逃したと思っている。
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サッカー日本代表がW杯出場を決めるたびに必ず流れるあの時のTV映像は今でもまともに見ることができない。
「自分から見たいとは決して思わない。あの時、僕がしっかりクリアできていたら状況が変わっていました。本当にそう思っています。ドーハの時の代表のユニホームですか? 今も自宅の奥に箱詰めにして一度も見ていない。あんな辛い思いは、もう2度としたくないからです」
2度の戦力外…苦労人が切り拓いた道
プロサッカー選手になってからも2度の“戦力外通告”を受けている。現役後半の2001年、長年所属した広島から戦力外通告を受けた後、どうしても入りたいチームがあった。J1昇格を決めた仙台だった。


