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「最初は七分丈ズボンでゲレンデに…」“雪なし県”沖縄出身の少年が…なぜスキージャンプの代表コーチに?「中学で初めて雪を見て」からの“異色の履歴書”
text by

雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph byKeigo Amemiya
posted2026/02/16 11:15
ミラノ・コルティナ五輪で女子ジャンプ競技のヘッドコーチを務める金城芳樹。「雪なし県」沖縄出身という異色の経歴を持つ
中学まで、の約束はどうなったのか。
「大会でもいいジャンプができるようになってきて、中3の冬ぐらいから少しずつ周りにも認められ始めた気がしていました。高校進学を考えたときにやっぱりジャンプを続けたいと思った。寮があって本当にスキーに打ち込める下川(商業高校)ならいいんじゃないかと」
下川商は伊東大貴や伊藤有希らを輩出してきた強豪校。高校がある下川町も葛西紀明や岡部孝信ら多くのメダリストを生み出している。高2の時には叔父、叔母、いとこも沖縄に帰ってしまったから、寮を備えた同校への進学はうってつけの選択でもあった。
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「下川に行って僕は劇的に成長したと思っています」と言うように、強い先輩たちがいてジャンプ漬けの生活を送る中で技術や知識も増えていき、ジュニア年代の日本代表にも選ばれた。
大学進学でぶつかった壁…「苦しい競技生活でした」
世界の舞台を目指し、果てはオリンピックも見えてくるかもしれない。そんな大志を抱いてこれまた強豪の日大に進んだが、大学での4年間は選手としては大きく停滞する。同世代のライバルたちとの差も広がっていく一方だった。
「ジャンプの形だけ大学生の真似をしようとして基礎的な部分がおろそかになっていました。踏み切りでの力の伝え方が分からないのでテークオフの練習だけ一生懸命やってたんですけど、今思えばそもそもゲートを出るポジションから大きくずれていたんですね」
知見を蓄えた今なら当時の自分を客観視できるが、その頃はただもがくだけ。そして、いくらもがいても飛距離は伸びず、気持ちも下降線を辿った。
「ステップアップできなくて苦しい競技生活でした。最終的には高校時代よりも下手になったような感覚で、4年生の頃にはもう何をしたらいいかわからなくなっていました。もうジャンプいいわ、みたいな。ひねくれてそんな風に思っちゃってましたね」
卒業後、東京で一度は不動産営業の職に就いたが、価値観が合わないと感じて半年で沖縄に帰った。故郷には青い海はあるが、白い雪はない。オリンピックなど到底望むべくもなかった。
<次回へつづく>


