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「高校中退して遊んでばかり」「デビュー戦で負けてタバコを捨てた」“どこにでもいるヤンチャな若者”がなぜレジェンド格闘家に? 金原正徳42歳の半生
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長尾迪Susumu Nagao
photograph byRIZIN FF Susumu Nagao
posted2025/10/05 11:10
『超RIZIN.4』のYA-MAN戦を最後に引退を表明した金原正徳(42歳)。20年以上におよぶキャリアのなかで、数多の強敵と対戦した
「日本ではキックボクシングや柔術を個別に教えてくれる先生はいましたが、“MMA”という形を教えてくれる人はいなかった。コーチの指導もすごく斬新で、面白かった。僕の中では結構、衝撃でしたね。もっと学びたいし、もっと強くなれると思いました。英語はそんなに喋れなかったけど、こっちの力を認めてくれるとよくしてくれる。ああ、格闘技って凄くいいなと。もっともっと強くなって、また戻ってきたいなと思いました」
2006年から2007年にかけて、金原は引き分けを挟んで7連勝とファイターとして大きく飛躍する。国内のメジャー団体や海外からもオファーがくるようになった。2008年には、デビュー戦で煮え湯を飲まされた杉内勇と再戦し、わずか47秒でKO勝利。試合前、金原はある覚悟を抱いていた。
「その頃には格闘家として本気で上に行きたいと決意していたので。杉内さんに負けたらやめようと。同じ相手に2度も負けるなら、自分は上に行く資格がないと思っていました」
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だが、プロの世界でスターダムにのし上がるまでには至らない。格闘家としての収入だけでは独り立ちもかなわず、実家暮らしが続く。父親からは「いい加減、就職しろよ」と言われていた。
「親父に『格闘技をやるのは25歳まで。メシを食えないならやめる』と約束しました」
戦極トーナメント優勝…そして“神の子”KIDと対戦
約束の期限を迎えた直後の2009年、26歳の金原は国内メジャー団体の『戦極』参戦を果たし、強豪16名がエントリーするフェザー級(当時は65kg以下)グランプリにエントリーした。戦極は2007年に活動を停止したPRIDEの選手の受け皿として、ドン・キホーテをメインスポンサーに吉田秀彦や五味隆典、ジョシュ・バーネットらが参戦し、2008年に旗揚げした団体だ。同じ頃、もう一方の受け皿として『DREAM』が発足。こちらには桜庭和志や山本“KID”徳郁、所英男らが参戦した。
戦極における金原の立ち位置は、決して期待された選手のそれではなかった。それでもトーナメントを勝ち進み、8月2日の準決勝にコマを進めた。特筆すべきは5月に行われた2回戦で、韓国のジョン・チャンソンに勝利したことだろう。チャンソンはのちにUFCで活躍。“コリアン・ゾンビ”と恐れられ、メインイベンターを務めるまでのトップファイターになった。
勝ち残った4人によるワンデイトーナメント。準決勝で日沖発に判定で敗れた金原だったが、日沖のドクターストップにより決勝に進出する。そして小見川道大を僅差の判定で下し、初代戦極フェザー級王座のベルトを腰に巻いた。彼にとっては初めてのベルトであり、300万円の優勝賞金も獲得した。1年ほど遅れたが、父親との約束を果たすことができた。
そして同年の大晦日に、戦極とDREAMの対抗戦が行われる。金原の対戦相手は、カリスマ的な人気で格闘技ブームを牽引した「神の子」こと山本“KID”徳郁だった。
<続く>




