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「オレが投げる日は抑えをやれ」ロッテで先発転向・牛島和彦に村田兆治の要望も…「200勝まで残り4勝は自分でやってください」でキャリアハイ
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赤坂英一Eiichi Akasaka
photograph byMakoto Kemmisaki
posted2025/08/05 11:13
ロッテ移籍後もクローザーとして奮闘し、村田兆治の200勝へ大きくサポートした牛島だったが、先発転向を決意して……
クローザーはナンバーツーでしかないから
「中日からトレードを伝えられた時、エースの小松(辰雄=当時27)さんは出せないと言われたという話、前に言いましたよね。
その言葉を聞いて、つくづく思ったんです。このチームで投手のナンバーワンは俺やない、小松さんなんや。いくらクローザーで頑張って、クローザーで一番になっても、チームの中では先発ローテのエースがナンバーワンで、俺はナンバーツーなんやと。
だから、ロッテに行ったら、先発でナンバーワンを目指そうという気持ちはずっと持ってました。とは言っても、村田兆治さんがいるから、なかなか難しかったんですけど。
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先発の初戦は打たれましたね。川崎球場のオリックス戦で先発して、1回3分の0でKOされて自責点6。防御率54.00からのスタートです。2試合目も勝てなくて、3試合目でやっと勝って、そこから徐々に結果がついてくるようになった。
当時はオリックスがブルーサンダー打線、近鉄がいてまえ打線、王者西武の打線も強力だった。だから、最初はクローザーみたいにヒット1本も打たれちゃいけないと思って投げてたんですよ。それから、先発としてのペース配分を覚えて、タイミングを外しながら投げられるようになったんです」
先発としてキャリアハイを達成
こうして牛島は、21試合に登板して12勝5敗、防御率3.63、完投も8と、先発としてキャリアハイの数字を残す。
「最後は肩を壊してしまいましたけど、先発をやってよかったと思います。先発と抑えの両方ができたのは、自分の野球人生の中でも、大きな財産になりました」
現役晩年は度重なる故障に苦しめられ、93年に32歳の若さで引退を決断。中日、ロッテ、ともに7年ずつの14年間のユニフォーム生活に別れを告げた。
解説者に転身した後、豊富な経験と知識を買われ、投手コーチとして多数のオファーを受けている。その中でも一際熱心だったのが、今年亡くなった巨人・長嶋茂雄監督だった。
〈第5回につづく〉

