甲子園の風BACK NUMBER
「甲子園で準優勝→4球団競合ドラ1」の“天才サウスポー”はなぜプロで1勝もできなかった? 「何でも鵜呑みにしてしまって…」本人が語った7年間の苦悩
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沢井史Fumi Sawai
photograph bySankei Shimbun
posted2025/07/15 11:01
1997年夏の甲子園で準優勝した京都・平安高校のエースだった川口知哉。4球団競合の末にオリックスに入団したが、そこで大きな壁にぶつかる
18歳の新人選手が完全な“浦島太郎状態”だった。
さらに夜間に自主練習する先輩たちを見て、自分も参加したいと思っていた。だが、キャンプ途中参加の自分が本当に参加していいのか躊躇していると「お前は何で(夜間練習を)しないのか」と周囲から叱責されたこともあった。
そうこうしているうちに3月になるとオープン戦やファームの試合も始まった。
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実戦が始まってようやく先輩選手の顔と名前を覚えられるようになった。川口にも実戦の機会が巡ってきたが、その頃から自分自身の歯車が徐々に噛み合わなくなっていることに気づく。
「最初に左肩の痛みを感じたのがその頃です。高校の時まで肩に痛みを感じたことがなかったんですけど、明らかに投げ方に違和感を覚えるようになって……」
川口の投球フォームは、ひじを回すために軸足を折ることでタメを作ってタイミングを取っていた。だが、キャンプ中にコーチからそれをなくすように言われていた。そこから明らかにフォームが狂い始めたという。
「ピッチャーって、ここに(ヒジが)来ないと投げられないっていう独自のポイントがあるんですよ。そこに来なかったら制球なんてできる訳がないんです。教えられるがままフォームを修正するんですけど……何が正解なのか、本当に自分にしっくりくるのか、それだけをずっと探していましたね」
戻らない投球…「何を聞いてもうまくいかない」
2年目に一軍初登板を果たすも結果は残せず、試行錯誤が続いたまま年月は4年が過ぎていた。
だが、4球団競合のドラ1投手のはずが、何を試しても好転しない。とりあえず投げてみようと登板してもフォアボールを連発する。それでもコーチは何とかしようとさらに色んな教えを自分に向けてくる。
「3年目くらいですかね。誰に何を聞いてもうまくいかないし、自分も不甲斐ないし、もう野球をやっている意味がないって思うようになって……」
ただ、4年目に入団当時マネージャーだった酒井勉コーチ(現・東海大コーチ)から「セカンドに投げるバント処理の動きがスムーズだよ」と言われた。

