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ペタジーニの阪神移籍「なぜ消えた?」巨人と熾烈な争奪戦「巨人関係者がベネズエラにいます」「…もう帰って来い」阪神元編成部長が明かす“ウラ側”
posted2025/07/13 11:01
2002年オフ、ペタジーニ争奪戦が繰り広げられた
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NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
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JIJI PRESS
「あかん。黒田さん、あきません」「巨人が来ました」「……もう帰って来い」
2002年11月、ヤクルトを退団したペタジーニ獲得に向けて阪神タイガースが渉外部の三宅徹部長をベネズエラに派遣した直後のやりとりである。当時の阪神編成部長・黒田正宏はNumberWebのインタビューで「あんなもん、負けるに決まってる。巨人は何倍もの金を出すんやから」と語っている。
松井秀喜のメジャー挑戦表明後、巨人はその穴を埋めるべくペタジーニと中村紀洋の両獲りを画策。一方の阪神は星野仙一監督のもと金本知憲とペタジーニの獲得を目指していた。スポーツ紙の報道によれば、ペタジーニ獲得に向けた提示額は阪神が2年20億円、巨人が2年30億円と大差があった。結局ペタジーニは巨人入りを決断。星野監督は「あきれ返るぐらい差があるんだから」と吐き捨てた。
中村紀洋は“引き分け”に終わった
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続いて阪神と巨人の争奪戦は中村紀に移った。星野監督は「中村は関西の星やないか。それをまた東京の金持ち球団にもっていかれてええんか」と考え、中村獲得に名乗りを上げた。一時は交渉後に中村の阪神入りを「内定」と書く媒体も出るほど進展した。
しかし、巨人の渡辺恒雄オーナーは「星野みたいな小僧がおれにけんかを売ってもしょうがないだろう。意味ないんだよ」と星野監督を皮肉った。最終的に中村はメジャー挑戦の意向からメッツと交渉するものの、メディアが「メッツ入り確定」と誤報。中村は近鉄残留を選ぶことになる。
この騒動を黒田は「僕らは、ホッとした面もあったな。高かったからなあ」と振り返る。「オーナーも最初は金庫を開けてくれたけどね。星野さんも『ウソ!?』と驚いてましたよ。でも、年末には閉めていた」
さらに翌2003年のドラフトでは鳥谷敬の獲得を巡り、再び巨人と争った。当初は鳥谷が東京出身で条件に「人気球団」を挙げていたことから巨人有利と言われたが、最終的に阪神が獲得に成功。黒田はこれについて、原辰徳が監督を辞任したことが大きかったと分析している。翌春、評論家に戻った原は阪神のキャンプを訪れ「黒田さん、僕が辞めたから取れたんですね」と話しかけたという。
インタビュー本編では、さらに詳しく掘り下げている。
〈つづく〉
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