革命前夜~1994年の近鉄バファローズBACK NUMBER
鈴木啓示と野茂英雄はなぜ反目したか…「お互い年取ったな」心の広い男・鈴木監督を一方的に断罪したくはないが「今は取材はしんどいのと違うか」
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKYODO
posted2025/06/13 11:06
他紙の記者に「やり過ぎやな」とたしなめられるような記事を出していた筆者にも、鈴木啓示監督は悠然としていたが……
近鉄は開幕から負けが込み、最下位に低迷。大阪の北部にあった閑静な住宅街に当時の球団オーナー・上山善紀を訪ね、怖気づくこともなく、家のインターホンを鳴らした。コロナ禍を経た令和の時代では、プライバシーや近隣住民の感情、警備などの諸問題も絡み、球団首脳の自宅を直撃することもご法度となったが、当時はそれこそお構いなし。その度胸がプロ野球記者たるもの、という妙な勘違いと功名心にも満ちていた。
1983年のオーナー代行時代、当時の監督・関口清治の去就に関して「球場に行ってみて、アカンというのが分かって、辞めさせたことがあります」という経緯を、上山は自ら明かした。上山を直撃したのが6月6日。そこからほぼ2週間後の同18、19両日に、上山の故郷である新潟での試合が組まれていた。
「ちょっとやり過ぎやな」
「勝率が5割とか6割とか、そういうのとは違いますな」
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上山は、弱い近鉄という負のイメージが流布してしまうことを恐れていた。それを自ら、故郷で確かめる……。私はそう組み立てたシナリオを会社で報告した。
数時間後、出来上がった6月7日付の1面には「鈴木解任」の見出しが躍った。
スポーツ新聞によくある「へ」も「?」もつかない、その断定的な紙面に、他紙の先輩たちから「ちょっとやり過ぎやな」と、たしなめられたほどだ。
飛行機嫌いの鈴木が…
上山が視察したその新潟から、チームは福岡への遠征へ飛んだ。この6月20日は強風の影響で多くの飛行機の着陸が遅れており、鈴木の搭乗した飛行機も着陸待ちのため、福岡空港周辺でおよそ20分間、旋回するということがあった。
同乗していた私は、飛行機嫌いの鈴木が不安そうに窓の外を眺めていたことを原稿に書いた。見出しをつけるのは、新聞のレイアウトを専門に行う「整理部」の記者なのだが、これがまた、秀逸(?)なフレーズだった。
「鈴木監督、早く降りたい……降りられない」

