野球のぼせもんBACK NUMBER
「ボクは1年目から結果を残さないと…」甲子園最速158キロでプロ入り、寺原隼人が抱えた重圧の正体…記者が見た「松坂を超えた怪物」のおとなしい素顔
text by

田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byJIJI PRESS
posted2025/06/02 11:01
寺原隼人は4球団競合の末、ダイエーから1巡目で指名された
「人を抜くとかじゃないです。記録を塗り替えたい。新しい記録をつくっていきたい」
すると翌日のスポーツ新聞には<21世紀の怪物が、新たな伝説の樹立を宣言した。狙えるものは、すべて狙う。最多勝をはじめ、最高勝率、最優秀防御率。もちろん、奪三振王も入っている。さらに、ベストナイン、ゴールデングラブ、MVP。新人王、沢村賞と9冠の制覇も視野に入れている(2001年11月27日付の日刊スポーツから一部を抜粋)>と威勢のいい文字がずらりと並んだりもした。
「僕も松坂さんの1年目に近い数字を残さないと」
確かに寺原自身、あこがれだった松坂のことはプロ入りが決まってからも意識する存在だった。むしろ、せざるを得なかったと表現する方が正しいかもしれない。
ADVERTISEMENT
41歳になった寺原が少し苦笑いを浮かべながら話す。
「高校からプロ入りすれば、今ならばドラフト1位でも即戦力より将来のための土台作りを優先させる時代です。でも、僕は1年目から結果を残さないといけないという気持ちは強かった。やっぱり松坂さんの記録を抜いた時点で、周りはそういう目で僕を見ますし。そうやって比べられたら、僕も松坂さんの1年目に近い数字を残さないといけないというプレッシャーみたいなものは感じていました」
のんびりした南国宮崎で生まれ育った剛腕はマウンドに立てば怪物級のボールを投げるが、普段は「怪物」というイメージとはかけ離れたおとなしい人柄だ。自ら大口を叩くようなタイプではない。素直な性格で番記者からも好かれた。ただ、その素直さがゆえ、実際の言葉よりも大きな表現で記事になることもしばしばだった。そういう時代でもあった。
