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落合博満から戦力外通告「お前はコーチやれ」中日・井上一樹監督、立浪前監督とは何が違う?「立浪さんはオーラがありました。でも…」ドラゴンズ主力が証言
text by

田中仰Aogu Tanaka
photograph byKYODO
posted2025/05/25 11:00
2009年、井上一樹の現役引退セレモニーで。落合博満監督と握手をする
〈プロには、そんなモチベーションの低い選手がいるのかと思うかもしれませんが、プロだからこそいる〉
井上は1989年ドラフト2位で鹿児島商業から投手として中日に入団した。同期に社会人で8球団競合の野茂英雄を筆頭に古田敦也、大卒で佐々木主浩、高卒で新庄剛志、前田智徳らがいる。のちにスター選手が続出する“豊作の年”だった。そこにあって井上は遅咲きだった。打者転向を経て一軍と二軍を行き来する時期が8年つづいた。星野仙一時代の1999年にブレイクし、7番ライトとして優勝に貢献する。チャンスに強く、ピンクのリストバンドが井上のトレードマークになった。とはいえ規定打席到達はキャリアでこの一度のみ。中日一筋20年プレーした選手ではあったが、本人が認めるように超一流ではなかった。
落合博満から戦力外通告「コーチをやれ」
井上の指導者としての資質に目をつけたのは落合だった。2009年、シーズン初ヒットを放った9月頃だったと井上は記憶している。試合後に監督室に呼ばれた。「来年の戦力に入ってない」。続けて3つの選択肢を提示される。コーチ、トレード、解説者。決めかねる井上の携帯が鳴ったのは、クライマックスシリーズに敗退した10月24日の夜、慰労会の最中のことだった。落合のマネージャーが言った。「監督が一軍のコーチをやれと言っている」。背番号は99。こうして一軍打撃コーチに就任する。以降、二軍監督や解説者、阪神一軍ヘッドコーチを務めた。
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星野に愛され、落合に認められ、2歳上の立浪から信頼された。中日の中心人物、それも曲者たちの近くに、井上がいた。それでいて闘将にも名将にもカリスマにもなかった、独自色。選手が萎縮しないようにプレーさせる。モチベーションを徹底的に引き出す。そこに監督1年目の井上は賭けているのだ。
「選手間だけじゃなく首脳陣との会話も増えた気はします」
プロ3年目の田中幹也は言う。
「昨日(豊橋)の試合前、監督から『やす(山本泰寛)と二遊間を組む。あいつ、抜けてるところあるから色々話しとけよ』って言われました。やすさんのこと、監督はそう認識してるんだと思ってビックリしましたね」
井上は田中幹也のことを“ミッキー”と呼ぶ。練習中のチームは不思議と明るい。井上の影響はたしかに見られた。
だが、と思う。ひとつのエピソードを思い出す。監督時代の星野は試合後の血圧が210にも上っていたという。1試合のあいだ前向きなメンタルを保つなんて可能なのか。


