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落合博満に星野仙一が激怒「あの1回だけだった」現場にいた中日選手が初証言「今だから言うけど…」星野監督の初優勝シーズン、鈴木孝政も怒鳴られていた
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岡野誠Makoto Okano
photograph byKazuhito Yamada
posted2025/03/13 11:02

中日監督時代の星野仙一(1988年撮影)
「自分の現役時代を知ってる選手って、やりづらいと思いますよ。星野さんに限らず、監督という職業はね。今はちょっと変わってきてますけど」
「勝利投手なのに…」激怒された日
青年指揮官は前年の牛島和彦、上川誠二に続き、87年オフには大島康徳、平野謙という82年の優勝メンバーを放出した。トレードこそ免れたものの、孝政もチームの片隅に追いやられていく。
88年、星野の監督2年目シーズン。開幕から郭源治につなぐ“中抑え”として活躍していた孝政は5月29日のヤクルト戦(新潟)、試合前のブルペンで今季初先発を言い渡される。7回2失点で勝利投手になると、久々に記者陣に囲まれた。
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「球団史上初めて新潟で勝ったのもあって、取材が結構長くなっちゃったの。地方球場だと、ヒーローはタクシーで帰るんです。でも、その日はバスが待っていた」
広報の催促で、初めて事情を知った孝政は小走りでバスに向かった。窓越しにナインを見ると、表情が強張っている。異変を感じたベテランがドアを開けた瞬間、怒声が響いた。
「いつまで喋っとるんじゃ!!」
星野は苛立っていた。デーゲームを終えた中日はすぐに東京へ移動し、翌々日の巨人戦に備えようとしていた。
「敗戦投手以下の気持ちになりましたよ。静まり返ったバスの中で、監督の横の補助席に座って、ずっと縮こまっていた(笑)」
原因は定かではないが、以降の登板数は激減する。5月まで13試合に投げていたが、6月2試合、7月3試合、8月3試合に。夏場になると、ルーキーの上原晃が郭源治の前を任され、居場所が失われていった。
星野が落合に激怒「その1回だけ」
この年、チームは開幕から波に乗れずにいた。最大の原因は、落合の不振だった。5月末で打率.260、7本塁打の主砲は6月1日からゲーリーに4番を譲り、実質5年ぶりの3番に入った。ある日の巨人戦で、落合がチャンスに凡退して敗戦。試合後の反省会で、星野は烈火のごとく怒りをぶちまけた。