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「どうしてあんなに勝つのか説明できない」田原成貴、武豊も絶賛…事故で騎手人生を絶たれた“本当の天才”とは?「息子が叶えたダービー制覇の夢」
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島田明宏Akihiro Shimada
photograph byJIJI PRESS
posted2025/02/20 11:03
現役時代の福永洋一。写真はインターグロリアで制した1977年の桜花賞(当時28歳)
落馬事故で脳を損傷…天才の騎手生命が絶たれた日
翌1972年の天皇賞・秋(当時は東京芝3200m)ではヤマニンウエーブに騎乗。40馬身ほど後ろを離す大逃げを打った逃げ馬がそのまま流れ込むかに見えたが、ゴール直前、首差でとらえて優勝した。
そして1976年の天皇賞・春では、17頭中12番人気のエリモジョージに騎乗。勝つときは恐ろしく強く、負けるときはあっさりというムラっけがあり「気まぐれジョージ」と呼ばれたこの馬で、不良馬場を生かし、まんまと逃げ切った。鮮やかな逃げっぷりは、今も語り草になっている。
大胆な騎乗を躊躇なくこなす様は「直感派」に見えたが、実は、<お茶を飲んで談笑する輪には加わらず、そこらに置いてある新聞や競馬関係の本に首を落として読みふけっているのが洋一の常だった>(後藤正治「天才騎手福永洋一 伝説への旅。」ナンバー316号所収)という彼は、ほとんどすべての関西馬の特徴を頭に入れており、「歩く競馬四季報」と言われた。「考える天才」だったのだ。
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1977年にはインターグロリアで桜花賞、ハードバージで皐月賞を優勝。1978年にはオヤマテスコで桜花賞を勝って同レース連覇を果たす。この年にマークした131勝は、今なら200勝に匹敵する数字である。
翌1979年もリーディングを独走していたが、3月4日、阪神競馬場で行われた毎日杯の4コーナーでアクシデントが起きた。馬込みのなかで前を走っていた馬が転倒し、牝馬マリージョーイに騎乗していた福永は、とっさに手綱を引いて外に進路を取った。が、マリージョーイの脚が落馬した騎手にぶつかってつんのめり、頭から馬場に叩きつけられた福永は、衝撃で舌を3分の2まで噛み切ってしまい、脳の損傷が激しかったため、右半身が不自由になる。天才の騎手生命は、ここで絶たれてしまった。
通算5086戦983勝。達成できなかった通算1000勝と夢のダービー制覇は、毎日杯の落馬事故当時2歳だった息子の福永祐一がやってのけた。祐一はリーディングも獲得し、史上初の親子のリーディングジョッキーとなった。
<岡潤一郎編へつづく>

