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「どうしてあんなに勝つのか説明できない」田原成貴、武豊も絶賛…事故で騎手人生を絶たれた“本当の天才”とは?「息子が叶えたダービー制覇の夢」 

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島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

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photograph byJIJI PRESS

posted2025/02/20 11:03

「どうしてあんなに勝つのか説明できない」田原成貴、武豊も絶賛…事故で騎手人生を絶たれた“本当の天才”とは?「息子が叶えたダービー制覇の夢」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

現役時代の福永洋一。写真はインターグロリアで制した1977年の桜花賞(当時28歳)

「競馬の世界に入れば、白い飯が腹一杯食えるぞ」と長兄の甲に言われた福永も騎手を目指すようになり、1964年春、馬事公苑長期騎手課程第15期生となった。同期には、岡部幸雄、柴田政人、伊藤正徳らがおり、「花の15期生」と呼ばれるようになる。

 岡部と柴田は1967年に騎手としてデビューしたが、一度騎手試験に落ちた福永のデビューは翌1968年になった。当時は1、2度試験に落ちることは珍しくなく、同期の伊藤も、10期下の田原成貴も落ちている。

“柔軟、奔放な騎乗”で9年連続リーディング獲得

 福永は、京都競馬場の武田文吾厩舎に所属した。武田は、1957年の牝馬二冠馬ミスオンワード、1960年の二冠馬コダマ、1964年の三冠馬シンザンなどを管理した伯楽だ。「東の尾形、西の武田」と並び称せられた大物である。

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 福永のデビューイヤーは14勝、2年目の1969年は負担重量不足による3カ月間の騎乗停止がありながら45勝。そして3年目の1970年、86勝を挙げ、リーディングジョッキーのタイトルを獲得する。以降、92、105、80、88、86、106、126、131勝を挙げ、9年連続リーディングとなる。武豊が1992年から2000年までリーディングとなって並んだが、9年連続というのは今でも日本最多タイ記録である。

 福永が日本リーディングとなった1970年から1978年まで、日本一の座を彼に譲ることになった関東リーディングジョッキーの名を70年から順に記すと、野平祐二、加賀武見、小島太、柴田政人、郷原洋行(翌75年も)、岡部幸雄、増沢末夫、郷原洋行と、歴代の名手がズラリ。騎手・福永洋一がいかに偉大な存在だったかが、よくわかる。

 重賞初制覇は1970年の京都4歳特別(タニノモスボロー)。翌1971年11月にニホンピロムーテーで菊花賞を勝ち、クラシック初制覇を遂げた。この菊花賞は、「京都の坂はゆっくり上って、ゆっくり下る」という「鉄則」を無視し、向正面なかほどで先頭に立って押し切っての勝利だった。師匠の武田文吾でさえ一度は勝負を諦めたと伝えられている。「定石」や「型」にとらわれない、柔軟で、奔放にも見える福永ならではの騎乗であった。

【次ページ】 落馬事故で脳を損傷…天才の騎手生命が絶たれた日

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