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「どうしてあんなに勝つのか説明できない」田原成貴、武豊も絶賛…事故で騎手人生を絶たれた“本当の天才”とは?「息子が叶えたダービー制覇の夢」 

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島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

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photograph byJIJI PRESS

posted2025/02/20 11:03

「どうしてあんなに勝つのか説明できない」田原成貴、武豊も絶賛…事故で騎手人生を絶たれた“本当の天才”とは?「息子が叶えたダービー制覇の夢」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

現役時代の福永洋一。写真はインターグロリアで制した1977年の桜花賞(当時28歳)

 そして、翌1974年、コーネルランサーで第41回日本ダービーを勝ち、史上初の騎手によるダービー父子制覇をやってのけた。父と同じく、31歳になる年のことだった。しかし、父はその7年前に世を去っていた。

<子は父のダービーを見ることができず、父も子のダービーを見ることができなかった>(同前)のである。

 なお、史上2組目のダービー父子制覇を達成したのは伊藤正四郎、正徳で、3組目は武邦彦、豊であった。

肝臓がんを患いながら参戦した“最後のダービー”

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 中島啓之は、このダービー制覇を含め八大競走を4勝するなど活躍したが、85年、肝臓の病を患い、入院を余儀なくされる。周囲にはそれを伏せて騎乗をつづけ、NHK杯で重賞29勝目を挙げ、オークスで2着となるなどしていた。ダービーの週、末期の肝臓がんであることを告知されたが、それでもトウショウサミットでダービーに参戦(18着)した。

 その後、再び入院した中島は、ダービーから16日後の6月11日、帰らぬ人となった。享年42歳。

 父のような一匹狼ではなく、騎手仲間ともマスコミ関係者ともいい関係を保ち、誰からも好かれる騎手だったという。

 そんな人気騎手の突然の死は、競馬サークル内外に大きな衝撃を与えた。

 7歳下の弟・敏文も騎手となり、重賞を5勝するなど活躍していたが、兄の死を機に調教師への転身を考えるようになり、91年、美浦に厩舎を開業するに至った。敏文は2011年10月、定年を前に勇退した。

「どうしてあんなに勝つのか…」真の天才・福永洋一

「どうしてあんなに勝つのか理屈で説明できない唯一の騎手だった」と田原成貴が言えば、「今ビデオで見てもすごいと思う」と武豊が絶賛する歴史的名手。

 それが福永洋一である。中島啓之より5歳下だ。

 福永は1948年12月18日、高知県高知市で生まれた。豊かだった生家は戦後に没落。母は家を出て、きょうだいは散り散りになり、末っ子の洋一は、細々と漁業を営む父と2人で暮らした。小学校高学年になると、父が獲ってきた魚を近所で売り歩くようになった。中学2年のとき、父が亡くなると、姉の嫁ぎ先の高知競馬場の厩舎に引き取られた。長兄の福永甲は中央競馬の騎手になり、次兄の二三雄、三男の尚武は南関東の騎手になった。

【次ページ】 “柔軟、奔放な騎乗”で9年連続リーディング獲得

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