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江夏豊36歳“ブチギレ事件”「(西武は)球団職員の人たちも冷たいね」「こんなムードで野球なんかでけへん」なぜ江夏は西武を1年でクビになった?
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細田昌志Masashi Hosoda
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2025/02/14 11:05
1985年1月19日、多摩市営一本杉球場での「江夏豊たった一人の引退式」。当時36歳の江夏、引退試合へ向かう車で
「西武の練習は江夏を全く無視して進行する。ランニングで脱落しても知らん顔。(中略)『別におまえさんがいなくても、うちは優勝出来るんだ』と言いたげにお構いなしである。無言のプレッシャーをかけられて、江夏はかなり緊張しているように見えた」(『日刊スポーツ』1984年2月23日付)
また、評論家の別所毅彦も「江夏の今シーズンは厳しくなりそう。球威、制球力ともかなり遅れている」(『日刊スポーツ』1984年3月24日付)と評すなど、従来の調整法を拒まれ、特別待遇もない状態を強いられたことで、江夏のフィジカルもメンタルも本調子とは程遠かったのである。
「広岡達朗vs江夏豊」冷え切っていなかった
江夏豊にとって1984年のシーズンが始まった。この時点ではラストイヤーになるとは夢にも思わなかったはずだ。初登板は4月2日の南海戦、最終回を難なく抑え初セーブ、幸先のいいスタートを切ったかに見えたが、5日のロッテ戦では8対7と1点リードで迎えた最終回、まさかの暴投で同点に追いつかれ、4月29日の南海戦では、門田博光に同点ホームラン、新井宏昌に逆転タイムリーを打たれ敗戦投手になっている。
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こういった場合、広岡監督は往々にして皮肉めいたコメントを残すものだが、江夏に対しては「見るべきものがある」「若い投手の見本になる」と意外にも持ち上げ、5月13日の近鉄戦で9回1対1で登板した折、ショート強襲のヒットを打たれ勝ち越しを許した際も「江夏は打たれていない。石毛(宏典)が捕れなかっただけ。江夏が責任を取る場面ではない」と庇ってさえいる。
これまで多くの識者が論じてきた江夏豊の野球人生において、西武時代については「広岡監督との不和」という文脈で語られることが多い。事実「広岡管理野球」と「江夏一匹狼野球」が相容れないのは疑いようがないが、シーズン序盤に限って言うと、二人の関係は冷え切ったものではなかった。江夏にとって一番のストレスは馴染めないチームメイトだったのである。
不満爆発「球団職員の人も冷たいね」
5月下旬に最初の異変が起こる。江夏はヘッドコーチの森祇晶を通して「西武にいても仕事が出来ないから、期間内の6月中にトレードに出して欲しい」と直訴したのだ。

