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江夏豊36歳“ブチギレ事件”「(西武は)球団職員の人たちも冷たいね」「こんなムードで野球なんかでけへん」なぜ江夏は西武を1年でクビになった?
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細田昌志Masashi Hosoda
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2025/02/14 11:05
1985年1月19日、多摩市営一本杉球場での「江夏豊たった一人の引退式」。当時36歳の江夏、引退試合へ向かう車で
この申し出を広岡監督は拒否、その後も江夏に登板の機会を与えている。それでも調子は一向に上がらず『週刊サンケイ』(1984年6月14日号)では「今年は全然ダメ。内角でストライクが取れないから全部外角攻め。しかも暴投が多い。選手はとうに江夏から離れているから一匹狼に逆戻り」と匿名記者に指摘されてもいる。記者も不調の原因を、チームメイトとの不和に見ていることがわかる。
そして、江夏の不満がついに爆発した。『東京スポーツ』の単独取材に洗いざらいぶちまけてしまうのである。
「ワシが投げるたびに白い眼で見られるようなムードの中では野球なんかでけへん。“余計な仕事やってくれた”という感じが伝わってくるよ。(中略)選手だけでなく球団職員の人たちも冷たいね。何か人間と人間のつながりに、あったかみを感じない。(中略)何か集まりがあっても“アンタはええ”という感じ。必要としないんなら出ていくしかないやろう」(『東京スポーツ』1984年7月10日付)
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完全なるチーム批判であり「ナインがすべての元凶」と言わんばかりである。一方、西武ナインにとっても、監督に特別扱いされる外様の江夏は憎むべき存在に映っていたと想像がつく。というのも、江夏本人はこの期に及んでも、広岡監督に対して「楽しいし勉強になる。いつもグーの音も出ない答えを出してくれる」(同)と親愛の情を示しているのだ。
まさかの二軍落ち「ワシはいじめたつもりはない」
しかし、一連の発言はさすがにまずいと思ってか、広岡監督も江夏を突き放すようになる。7月12日の南海戦を最後に登板機会を与えず、オールスターゲームの監督推薦からも外し、26日には登録抹消、二軍落ちを命じたのである。『日刊スポーツ』(1984年7月24日付)は一連の騒動について「くすぶる広岡擁護」というタイトルでこう括っている
《広岡監督は江夏入団から一貫して「彼はプロ意識に徹した男」と評価。マイペース調整を認めた。これが他のナインには「特別待遇」と映り、浮いた存在となる引き金となった》
とすれば、広岡監督自身が江夏本人と膝を突き合わせて話し合えば、かかる事態は回避出来たかもしれない。しかし、それはしなかった。

