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江夏豊36歳“ブチギレ事件”「(西武は)球団職員の人たちも冷たいね」「こんなムードで野球なんかでけへん」なぜ江夏は西武を1年でクビになった?
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細田昌志Masashi Hosoda
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2025/02/14 11:05
1985年1月19日、多摩市営一本杉球場での「江夏豊たった一人の引退式」。当時36歳の江夏、引退試合へ向かう車で
というのも広岡監督はこの時期、森ヘッドコーチ、近藤昭仁守備走塁コーチ、与那嶺要走塁コーチら首脳陣と深刻なトラブルを抱えており、チームも3位に低迷していた。つまり、江夏どころではなかったのである。そんな末期的状況で、スポーツ紙を相手にチームメイトをボロカスに批判する不満分子を2軍に落とすのは、監督としては当然の処置だったと言っていい。
その複雑な心情が、長年、特別待遇に甘えてきた江夏には理解が出来ない。「監督はあいつら(ナイン)を取った」「俺は監督に梯子を外された」と考えても不思議はなく、マスコミも「広岡と江夏が対立」を殊更に報じ始めたことで、両者の関係は急速に冷え切ってしまうのである。
その後は二軍選手と一緒に練習に励んだ江夏豊だったが、一軍に復帰することはなく、9月30日に正式に西武を退団。移籍先は見つからず、11月12日には正式に自由契約が言い渡される。江夏の「広岡批判」が散見されるのは、実は退団後のこの前後を嚆矢とするが「ワシはあの男(江夏)をいじめたつもりはない。むしろ庇ってやった方だ」(『日刊スポーツ』1984年11月13日付)という広岡監督のコメントには実感が籠っている。
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かくして、球界の孤児となってしまった江夏豊だったが、一人の男が接触をはかってきたことで現役続行の想いを強くする。そこからどういう経緯で、この2カ月後、文藝春秋が主催する「たった一人の引退式」が挙行されるに至ったのだろう。
<続く>

