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「原(辰徳)さんに坊主頭をなでられ…」巨人で活躍した右腕はなぜ“うどん屋”に?「10代で一軍抜擢」「原監督に怒られた日」條辺剛が語る巨人時代 

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長谷川晶一

長谷川晶一Shoichi Hasegawa

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posted2024/12/28 17:25

「原(辰徳)さんに坊主頭をなでられ…」巨人で活躍した右腕はなぜ“うどん屋”に?「10代で一軍抜擢」「原監督に怒られた日」條辺剛が語る巨人時代<Number Web> photograph by JIJI PRESS

プロ2年目、2001年3月の條辺剛(当時19歳)。巨人の投手では桑田真澄以来となる「10代での開幕一軍」に抜擢された

「1年目の秋、僕、パーマをあててキャンプに臨んだんです。ヒゲは禁止だということは聞いていたけど、髪型については何も言われていませんでした 。それで、初日のミーティングでいちばん前に座っていたら、いきなり原さんに呼ばれて、“明日までにお前の考えるいい頭にしてこい”って言われたんです」

 原が口にした「いい頭」とは何か? 先輩に相談すると、誰もが「決まってるだろ」と言いながら、手に持ったバリカンで坊主頭にする仕草をした。

「次の休みの日に坊主にしました。そうしたら、原さんも“いいじゃないか~”と言ってくれて、“2~3キロは、ボールが速くなっているぞ!”と、何度も坊主頭をなでられましたね(笑)」

言えなかった肩の痛み「居場所を失ってしまう…」

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 01年には46試合、翌02年には47試合に登板。リードしている場面で登板し、セットアッパー、クローザーへとつなぐ重要な役割を任されることになった。プロ入り時に「2年やってダメなら打者に転向する」と考えていた條辺本人はもちろん、首脳陣にとっても嬉しい誤算となった。しかし、この時点ですでに右肩には異変が起きていた。

「01年の6~7月頃にはすでに肩を痛めていました。自分にとっては初めてのチャンスだったので、“肩が痛い”とは言えなかったんです。中継ぎの先輩たちに相談すると、“早く伝えた方がいい”と言われているのに、それでも言えなかった。自分の居場所を失ってしまうことへの焦りですよね。すべて自分のせいなんですけど……」

 痛み止めの注射を打ちながら、だましだまし投げ続けた。痛みのために右肩が上がらず、片手で髪を洗うこともあった。球速は7~8キロは落ちてしまっていたが、炎症が治まればまた投げられるようになり、そして再び炎症に悩まされる。その繰り返しだった。満足のいく投球ができなかった。「もう一度、身体を作り直そう」と個人トレーナーと契約し、一からトレーニングに励んだ。右肩以外は万全な状態になった。だが、肩の痛みはどんどん激しく、そして強くなっていく。

「右肩以外のコンディションは万全なんですけど、最後まで球威は戻らなかったですね。03年は9試合、04年は4試合、どんどん登板機会も減っていって、“そろそろかな?”と覚悟はしていましたね」

 條辺が口にした「そろそろかな?」というのはもちろん、「戦力外通告」のことだ。04年オフ、覚悟はしていたものの、通告はなかった。もう1年、チャンスを与えられたのである。

<続く>

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#2に続く
「年俸3400万円から月給12万円に」巨人の選手からうどん屋に転身「立ち仕事は野球の練習より辛い…」條辺剛が“うどん作り”に魅せられるまで

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