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「本当にピュアで可愛い人でした」夫人が明かす横綱・曙太郎の素顔「娘の裸を見ちゃって…大変だ!」ボブ・サップ戦は「やめてとは言えなかった」
 

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佐藤祥子

佐藤祥子Shoko Sato

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photograph byGetty Images/Christine Reiko Akebono

posted2024/07/11 17:02

「本当にピュアで可愛い人でした」夫人が明かす横綱・曙太郎の素顔「娘の裸を見ちゃって…大変だ!」ボブ・サップ戦は「やめてとは言えなかった」<Number Web> photograph by Getty Images/Christine Reiko Akebono

今年4月に逝去した元横綱・曙太郎との思い出を語ったクリスティーン麗子夫人

 横綱時代の父親の記憶がない子どもたちも、追悼記事などを見て「すごい人だったんだ」と再確認したようです。先日、ハワイにいる長男が「お父さんの写真がショッピングモールに大きく貼ってあったよ!」とうれしそうに写真を送ってきたものです。

やめてとは言えなかったボブ・サップ戦

 '01年1月に引退した彼は東関部屋(師匠は元関脇・高見山)の部屋付きとして「曙親方」となりました。でも、あの頃はどんどん元気がなくなっていくようでした。協会の仕事に物足りなさを感じていたようで「控え室でテレビを見ながらお菓子食べてばかりで、もう死んじゃいそうだよ」とぼやいていた。引退後も毎日ジムに通い、「汗をかくのが僕の仕事」とスポーツマンとしての魂は忘れていませんでしたから。

 相撲が大好きで横綱の誇りも持っていたけど、年寄株などの現実的な問題もあって相撲協会に残ることが難しいと頭を悩ませてもいました。そして'03年11月、K-1のお話が舞い込んで来たんです。そう、大晦日のボブ・サップ戦ですね。

 私としては本人がやりたいと言うのに反対はできません。「自信があったらどうぞ。やってみてボコボコにされたら、それはそれ。あなたが選んだ道だから応援するわ」と言うしかありませんでした。膝や腰のケガも良くなっていたし、協会を退職してK-1挑戦を決めてからは毎日が楽しそうだったんです。家族で応援に行き、勝てるはずだと信じていましたが、結果はそうはいきませんでした。

「いきなり格闘技のリングに上がるのは失敗だった」と言われても、横綱にまでなった彼に新たにやりたいことができた。ずっと一筋に歩んできた世界を捨てて、違う世界にチャレンジをする。妻の私が「もうやめて」と言えるものではないですよね。

プロレスラーに転向、そして異変が…

 '05年からプロレスラーに転向した時もそうです。私はプロレスはまったくわからず、たまに「見に来てよ」と言われるだけ。衝撃的だったのは、大仁田厚さんとの試合(電流爆破デスマッチ)です。「ここまでやるのか!」と驚きました。試合後は可哀想なくらいの大火傷。手当をするのは私で、シャワーのあとに毎日薬を塗って、絆創膏を貼ってあげました。彼は子どもたちにも「その競技やルールをリスペクトできないならスポーツなんてやるな」と教えていたので、どんなことにも全力で、彼なりに真摯に取り組んでいたのだと思います。

 口喧嘩ぐらいの夫婦喧嘩ならしょっちゅう。横綱時代は付け人たちに「横綱にそんなに強く言い返せるのはクリスさんだけです」と驚かれていたし、彼が怒って物に当たり散らし始めた時は幼い子どもを連れて家出もしました。1週間後には「ごめんね」って迎えに来てくれましたけどね。私たちには3人の子どもがいますが、昔からよく言っていました。「私には4人の子どもがいる。あなたも私の子どもよ。それも一番大きくて一番面倒だわっ!」って。プロレス時代もコスチュームの洗濯や荷造りは全部私がやっていたんですよ。

 そんな大将に異変があったのは、'17年4月のことでした。

【続きを読む】サブスク「NumberPREMIER」内の【夫人が明かす最期】「こんな弱々しい姿を…」曙太郎、傷つきやすい素顔と“プロレス参戦の異変”「私のことは常にママと呼んでいました」、こちらの記事の全文をお読みいただけます。

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