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「ボノちゃん」から電流爆破マッチまで…横綱・曙はなぜリングに上がり続けたのか? カメラマンが見た“心やさしい愛妻家”のプロレス時代
posted2024/04/16 17:29
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
曙太郎はニコッと笑って、ビールが注がれた大きなジョッキの中に小さなグラスをポトンと落とすと、一気に飲み干した。小さなグラスの中には眞露が入っていた。
それを見ていたスポーツ紙の記者が「ボクも」と近寄って横綱に挑んできた。「止めとけばいいのに」と思った。体の大きさは3倍以上も違う。勝てるはずもない。一緒に飲んでみたかっただけなのだろうけど。
韓国で見た横綱のやさしさと気遣い
韓国・ソウルのある店で焼肉を食べた後で、曙と4、5人で飲んでいた。クリスティーン・麗子・カリーナ夫人も一緒だったが、少し離れたところから微笑んでいた。
曙は「じゃあ、2つ入れるよ」と言って、今度は自分のジョッキに小さなグラスを2つ落とした。最初から結果がわかっている勝負にちょっとハンディキャップをつけてみせるという、横綱のいたずらっ気のあるやさしさであり気遣いだった。次は3つ落としてみせた。
眞露は想像以上に効く。その数年前、韓国の友人と筆者は眞露での乾杯を繰り返し、ホテルまでたどり着くのがやっとだった苦い経験がある。
勝負の結果が出るのにそんなに時間はかからなかった。その記者は横綱の前で深い眠りに落ちてしまった。
「ここはお開きにして、もう一軒行きますか?」という流れになったが、愛妻家は夫人の方に目をやると「待っているから」と席を立った。
ジャンルが変わっても「64」を背負ってリングに立った
曙の相撲は「電車道」で豪快だった。同期の若乃花、貴乃花との対戦は面白かったし、テレビでは見ていたが、相撲時代の曙を取材したことがない。K-1やプロレスを始めてからの曙しか筆者は知らない。
曙はジャンルが変わっても「64」という数字を背負ってリング立っていた。大相撲という特別なしきたりのある世界に入って、外国人として初の横綱になった。1998年長野冬季五輪の開会式では土俵入りのパフォーマンスを披露して、日米や世界との懸け橋といった大きな役割を務めた。考え方や礼儀作法は日本人より日本人らしいという評判をよく耳にしていた。