近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
野茂英雄に米スター選手が直接伝えた感謝「メジャーリーグはキミに救われた」…負けても称賛されたプレーオフの先発 「トルネード旋風」は何を残したか
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKoji Asakura
posted2024/07/11 11:06
1995年夏からアメリカにて野茂英雄を取材した記者が振り返る、メジャー1年目に野茂が得たもの、そして後世への影響とは?
メジャーは、負けてシーズンが終わったその瞬間、事実上の“解散”になるという。荷物をまとめながら、選手たちは握手を交わし、抱き合い、シーズンの健闘を称え合う。
「じゃ、また来年」
そんな別れの言葉が飛び交う中で、野茂と、ふと目が合った。
厳密に言えば、合ったような気がした。
野茂が、小さくアゴを引いたように見えた。だから、こちらも小さく頭を下げた。
喧騒のロッカールームでの“一瞬”が、今も脳裏に焼き付いている。
大谷&ロバーツに重なる関係
あの夏から、29年。
大谷翔平が、ドジャースのユニホームを着て、ロサンゼルスの青空の下で躍動している。
背番号17は、野茂英雄の「16」より1つ大きい。それを私は、野茂という先人が拓いた歴史を引き継ぎ、新たな一歩を踏み出したという、勝手な解釈で捉えている。
あながち、悪い意味付けではないと自負している。
というのも、大谷と沖縄生まれの監督デーブ・ロバーツというふたりの関係が、どこか、親日家だったラソーダと野茂との関係に、似ているように見えて仕方ないのだ。大谷とロバーツがベンチで話し込んでいるシーンも、大きな身ぶり手ぶりを交え、野茂に片言の日本語で話しかけていたラソーダの姿と、どこか重なってくる。
国籍の壁を越え、結集させた力をまとめ上げる。そのドジャースの伝統と歴史の中に刻まれた野茂英雄の足跡を今回、改めてクローズアップしてみた。
大谷翔平が生まれたのは、野茂の“日本最後の年”の1994年だった。だから、大谷に物心がついたころには、野茂はすでに、バリバリのメジャーリーガーとなっていた。
「日本を飛び出したパイオニア」を受け入れたドジャースに今、大谷翔平という日本が生んだメジャーのスーパースターがいる。
その長き歴史の“源流”は、間違いなく「野茂英雄」にあるのだ――。
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