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「実力でケイスケ…それだけだ」本田圭佑17歳を抜擢、柏レイソル“降格→2年でJ1優勝”…ネルシーニョ73歳「監督を引退する気はない」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada/Nanae Suzuki
posted2024/02/24 11:03
御年73歳となったネルシーニョ。Jリーグで残した実績を振り返れば、歴史に残るべき名将である
「彼は高校では王様のようにプレーしていたはずで、自分でスペースに走り込んだり、貪欲にゴールを狙う姿勢が物足りなかった。これらの点で向上することを求めた」
――その後の本田の欧州クラブや日本代表での活躍をどのような思いで眺めていましたか?
「監督なら誰でも、自分がデビューさせた選手は気になる。彼にはずっと注目し、彼が出場する日本代表、CSKAモスクワ、ACミランなどの試合を可能な限り見た。
欧州へ渡ってからは、フィジカル能力をさらに高め、効率良くゴールへ向かうプレーを志向していた。それが、彼が欧州で長くプレーできた大きな理由だろう。日本代表でも、W杯など重要な大会で効果的なプレーをしてチームの勝利に貢献していた。このような彼の活躍は、私にとっては何ら驚きではなかった」
レイソル降格→昇格→J1優勝にあった勝因とは
――名古屋でのキャリアについても教えてください。04年の前期は8位、後期は5位で、年間7位。05年も指揮を執りますが、9月、全34節中24節を終えて8勝8分8敗という成績で解任されました。
「いくつか思うようにいかなかった点はあったが、あの時点から巻き返す自信はあった。退団を余儀なくされたのは残念だった」
――その後、ブラジルで名門サントス、さらには古巣コリンチャンスで采配を振るった後、09年7月、残留争いの真っただ中にあった柏レイソルの監督に就任。降格を阻止することはできませんでしたが、翌年、J2で優勝し、さらに昇格1年目の2011年、J1も制覇するという離れ業を成し遂げます。
「最大の勝因は、選手たちが私の戦術を信じて付いてきてくれたこと。柏のフロントが私の望む外国人選手を獲得してくれたのも大きかった。
たとえば、MFレアンドロ・ドミンゲスは(01年から02年にかけて)私がサンパウロの監督を務めていた時に彼のチーム(注:ヴィトリア)と対戦し、技術の高さと戦術眼が強く印象に残っていた。09年末、フロントに彼の獲得を強く進言した。10年に入団すると、彼はJリーグのスタイルにすぐに馴染み、大活躍してくれた。彼なくして、10年と11年のタイトル獲得はなかったかもしれない」
「柏と日本でのキャリアを終えるべき」と考えた瞬間
――ただし12年は6位、13年は10位に留まり、14年は4位に食い込んだものの退任します。