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「なんで私だけ?」石井優希が苦しんだ“中田久美の秘蔵っ子”としての重圧…涙する毎日を救った木村沙織のLINE「わがままになっていいんだ、と」
posted2023/11/26 11:01
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph by
Naoki Morita/AFLO SPORT
13年間の現役生活を振り返ると、一番のいい思い出と苦しい思い出は表裏一体だと言う。
「リーグなどで優勝した時はすごく嬉しかったんですけど、それまでの日々の練習はしんどくて、精神的につらいことがすごく多かったですね。毎日、朝を迎えるのが嫌だった時期もありました。特に中田久美監督の時は厳しかったので……」
石井優希のバレー人生は、久光スプリングス(当時は久光製薬スプリングス)と日本代表で監督を務めた中田久美の存在なくして語れない。
重圧を感じていた若手時代「今思えば充実していた」
就実高校から久光に入った石井は、層の厚いチームの中で2年目までレギュラーをつかめずにいた。しかし3年目だった2012-13シーズンに久光の監督に就任した中田は開幕戦から石井を先発に抜擢。まだ荒削りで波があった石井を我慢強く起用しながら、就任1年目からリーグ優勝を果たし、翌年には連覇を達成した。
石井にとっては輝かしいブレイクだったが、毎日が重圧との戦いだった。
「周りが(新鍋)理沙さんとか(岩坂)名奈さんとか(長岡)望悠とか、日本代表でもレギュラーで活躍していたり、結果を出している選手ばかりだったので、そこについていくことに必死でした。自分さえやればチームが勝てると思っていましたが、私がいつもサーブで狙われて、そこでサーブレシーブが返らなければバレーにならない。久美さんにも『優希が崩れなければチームは勝つ』と言われていたのでかなりプレッシャーはありました。
でもやっぱりポジションは取られたくなかったし、厳しい練習だったんですけど、今思えば充実はしていたなと。毎日、『私、アスリートやってんな』みたいな感じでした」
そこから日本代表にも定着していき、眞鍋政義監督にはディグ力やパワーあふれるスパイクを買われて2016年のリオデジャネイロ五輪に出場した。
「足を引っ張ってしまった」と自身のプレーには悔いが残ったが、五輪の舞台には魅了された。
「ああいう独特な雰囲気の舞台で戦うのが初めてで、すごく興奮しました。だから、『もう一回出たい。次の東京五輪には自分が引っ張って出る』という思いになりました」