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ラグビーPRESSBACK NUMBER
小6で44歳の母を亡くして…『10年後の僕は日本代表に選ばれていますか?』李承信22歳が叶えた“卒業文集に記した夢”<ラグビーW杯>
text by
キム・ミョンウKim Myung Wook
photograph byR)Kiichi Matsumoto
posted2023/09/26 17:02
幼い頃の李承信と母の金永福さん(父・東慶さん提供)。在日3世である李は、朝鮮学校出身者として初のラグビー日本代表になった
「私の妻もバスケットボールをしたりとスポーツ好きで、ラグビー部のマネージャーもしていたんです。だからか一般のお母さんたちよりもラグビーは分かっていました。長男も次男も人見知りで、最初はなかなかスクールに馴染めなかった。でも一番下の承信は、どうすればいいかと兄のことをよう見ていたのか、スクールにもスッと入っていけていましたよ。それに元々、運動神経が良くてね」(東慶さん)
根っからのラグビー好きは、父と兄ゆずり。とにかくどこに行くにしてもラグビーボールを肩身離さず持ち歩いた。
「昔、学校にラグビーボールを持っていって、先生にしかられたことがあったようです。当時は周囲にそんな子はいませんでしたから」
最愛の母の死、まだ小学6年生
そんな承信が小学3年の頃、母が乳がんを患った。闘病生活を家族や周囲の人たちも全力で支えたが、末っ子の承信には悲しい思い出が今も頭によぎる。
「小学3年生はまだオモニ(母)に甘えたい歳ですし、高学年になってから妻は運動会などの学校イベントには参加できなかった。妻はできる限りのことをしていたけれど、子どもたちは本当に寂しい思いをしていたと思います」(東慶さん)
承信が小学6年の時、母は44歳という若さでこの世を去った。東慶さんが当時のことを振り返る。
「実は当時、承信が急性糸球体腎炎にかかってね……。これは溶連菌からこじらせる病気なのですが、妻が亡くなってから1カ月くらいのことでした。たぶんショックもあったんでしょう。下手したら一生、スポーツもできないかもしれない状態で、2週間はベッドから一歩も出たらあかんかったんです。無事に治ったんですが、その後も半年はスポーツしたらあかんって言われていたんです」