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「衝撃的だった」黄金世代の10番・本山雅志が語る小野伸二とワールドユース決勝「あの大会でパッと頭に出てくる思い出といったら…」
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byAFLO
posted2023/08/27 11:04
1999年ワールドユースで準優勝した黄金世代のメンバー。右から播戸竜二、本山雅志、小野伸二、高原直泰、稲本潤一
鹿児島の遠藤保仁は小学生から大会でも一緒になったことで知っていた。「ゴリゴリのドリブラー」という印象がしばらく続いた。
本山が「衝撃的だった」と語るのは、小野伸二である。
「九州から出たことなくて、昔は今のように簡単に映像で見ることもできない。ウワサだけは聞いていて、高校2年の国体で初めて見たんですよ。難しいプレーをいとも簡単にやっていたというのもあったけど、シンプルなんですよね。簡単なプレーほどちゃんとやらなきゃいけないって思わせてくれたのも伸ちゃんでしたね。
一緒にプレーしていても、欲しいと思ったスペースにボールが出てくる。だからそこに走り込むようにしていました。東福岡では“周りを使う立場”だったけど、代表では“使われる立場”。イナ(稲本潤一)やミツ(小笠原満男)、ヤット(遠藤)もそうですし、パスを出せる感覚を持っている選手が圧倒的に多かった気がします。同期でこれだけうまい選手がいっぱいいるって幸せですよね。自分にないものをたくさん持っているから勉強になるし、目標にもなる。それにみんなはずっと(世代別の)代表で一緒だから仲も良かった」
東福岡のチームメイトと同様に、みんなの意識が高く、向上心も高いから自分も引き上げられていく。心からそう思えた。
卒業後は小笠原、中田らとともに鹿島に加入し、プロ1年目に開催された1998年のAFCアジアユース選手権では得点王に輝く。活躍が認められてフィリップ・トルシエが指揮を執るシドニー五輪代表合宿に呼ばれ、高校の先輩を「さん」づけして呼んでいたら、トルシエに怒られて延々と外を走らされたというエピソードを持つ。ただ、先輩なんだからそう呼ぶでしょ、と意に介さなかったのも九州男児の一面を持つ彼らしい。
「過酷という言葉じゃ表現できない」体験
そのトルシエがユース代表監督も兼ねることになり、のちのサッカー人生において「生き抜く力が高まった経験」になったのが、1999年2月のブルキナファソ遠征だ。4月のワールドユースがナイジェリア開催だったため、環境に慣れる目的もあった。滞在するホテルではクーラー禁止令まで出ていた。